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医史跡を巡る旅 №73 [雑木林の四季]

江戸の疫病~前篇

           保健衛生監視員  小川 優

江戸時代、はやり病として恐れられたのは天然痘(疱瘡)、麻疹(はしか)、水疱瘡(水痘)でした。庶民はこの三つの病のことを「お役三病」と呼び、恐れました。いずれもウイルスが原因で一度罹ると免疫を獲得することができるため、原則として二度罹りません。そのため感染自体は恐れられながらも、流行を生き延びて初めて一人前、つまり通過儀礼とみなされていた節があります。積極的な予防策がなく、効果的な治療方法もない(因みに、現代でも坑ウイルス薬はなく、解熱剤投与などの対処療法のみです)時代ですから、ある意味諦念観が感じられます。現在のコロナ禍の状況とよく似ていますね。

「少彦名神社」

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「少彦名神社」 ~大阪市中央区道修町 少彦名神社

大坂中央区道修町にある少彦名神社は、少彦名命と神農炎帝を祀る医薬の神様です。道修町には江戸時代から薬種商が集まっており、株仲間を作っていました。この株仲間が安永9年(1780)、京都の五條天神社から祭神として少彦名命を勧進したのが始まりとされます。

「少彦名神社御朱印帳」

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「少彦名神社御朱印帳」 ~大阪市中央区道修町 少彦名神社

今般の新型コロナウイルス感染症の流行収束を祈願した、少彦名神社2020年夏バージョンの御朱印帳です。

「疫病退散の赤虎」

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~大阪市中央区道修町 少彦名神社

疫病退散を祈願する、赤虎が描かれています。

天然痘は種痘の普及により減少し、1980年5月にはWHOが根絶を宣言しました。かつては致死率の高い病気として恐れられ、日本でも1946年には18,000人程の患者が発生し、約3,000人が死亡しています。ワクチンによって予防できても、治療は難しく、統計的な死亡率は20~50パーセントに上りました。江戸時代でも貴賤を問わず感染し、宝永元年(1704)徳川綱吉長女の鶴姫、天保11年(1840)徳川家慶六女の暉姫、嘉永2年(1849)尾張藩主徳川慶臧、慶応2年(1867)孝明天皇と、幕府要人だけでも多くの人が命を落としています。

「疱瘡神社・疫神社」

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「疱瘡神社・疫神社」 ~東京都中央区佃 住吉神社

もんじゃ焼きですっかり有名になった佃は、江戸時代は漁村でした。家康の江戸開府の際、摂津佃村の漁民を呼び寄せたのが始まりとされ、住吉神社も同地にあった神社を勧進したと伝えられます。境内には、疱瘡神社と疫神社があります。それぞれ素戔嗚尊と疫神を祭神として、鎮座は嘉永3年(1850)とされます。文久2年(1862)、江戸で麻疹とコレラが大流行した時、7尺の船に藁の人形(ひとがた)を乗せ、沖に流したという記録があるそうです。疫病流行時にその原因を疫神と捉え、人形に移して、集落から外に送り出す行為は各地に見られ、疫神送り、疫神流しと呼ばれています。

天然痘は潜伏期の7~16日を経て、前駆期は40℃を超える発熱が2~4日続き、解熱するとともに発疹が生じます。発疹は部位に関わらず、規則正しく紅斑→丘疹→水疱→膿疱→結痂→落屑と移行し、異なる状態が同時に現れることがありません。この点が後述の水痘とは大きく異なります。また膿疱となった時期に再度発熱するほか、発疹部の疼痛や灼熱感が強いという特徴もあります。瘡蓋(かさぶた)が完全に落ち、熱が下がるまでは感染の恐れがあり、瘡蓋そのものにも暫く感染性があります。また落屑後も色素沈着や、瘢痕(痘痕・あばた)を残します。このため「美目定めの病」とも呼ばれました。

「瘡守稲荷神社」

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「瘡守稲荷神社」 東京都世田谷区瀬田

用賀駅から暫く歩いた住宅地に鎮座しています。祭神、由来は記録がなくはっきりしませんが、少なくとも江戸時代から病平癒、特に瘡(かさ)治癒の霊験ありとして、近郷農民の信仰を集めました。願掛けとしては、神前に供えられた多摩川の石を持ち帰り、無事治癒した時には新たに川原で石を拾い、倍にして返す習わしであったそうです。

稲荷信仰は字の示すとおり、農民の間で広まった農耕神信仰で、そのお使いが狐とされます。狐は米を食害する鼠を捕食しますし、生態も神秘的なためお使いとみなされ、場合によっては自身が神格化します。やがて商業が盛んになると商売繁盛も願われるようになり、庶民の身近な万能神とみなされるようになります。

中でも何度も大きな疫病の流行を経て、疫病から守る役割に特化した信仰を得る稲荷神も生じ、「瘡守」、「瘡護」(かさもり)を名乗るようになります。また同じ音からの連想、もしくは音が同じものの、敢えて異なる字を充てたのかはわかりませんが、「笠森」もまた、同じ御利益をもたらすとして信仰されました。

麻疹は現代でも重要な感染症で、先進国であっても患者1,000人あたり1人の割合で死亡する可能性があり、小児死因においては世界統計で1.2パーセントを占めています。さらに大人になって麻疹に罹ると、重症化する傾向があります。江戸時代では麻疹が25~30年おきに流行しており、「麻疹で知られる傾城の年」という川柳があります。これは麻疹が流行っているにもかかわらず、若い筈の遊郭の遊女がなぜか罹らず、遊女の実年齢がばれてしまった、ということを謡っています。有名どころでは、生類憐みの令で悪名の高い徳川綱吉が麻疹で命を落としています。

江戸時代麻疹は、記録で確認できるところでは13回、流行しています。
慶長12年(1607)
元和2年(1616)10月
慶安2年(1649)3月
寛文10年(1670)2月
元禄3年(1690)3月上旬~4年5月
宝永5年(1708)秋~6年春 徳川綱吉死去
享保15年(1730)9月~? 幕府が麻疹薬を無料配布
宝暦3年(1753)4月~9月 
安永5年(1776)3月末~初秋
享和3年(1803)3月下旬~6月
文政6年(1823)11月~7年3月
天保7年(1836)7月 小規模流行
文久2年(1862)6月~閏8月 大流行 江戸の死者1万人余
(鈴木則子 日本医史学雑誌 第50巻第4号 2004)より

「大圓寺薬王殿(瘡守堂)」

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「大圓寺薬王殿(瘡守堂)」 東京都台東区谷中

享和年間に大阪、高槻市にある笠森稲荷を旗本大前氏が勧進したもの。笠森(かさもり)は瘡守(かさもり)に通じ、疱瘡に効能ありとされました。向かって左側が本堂で、右側が瘡守薬王菩薩を祀る薬王殿になっています。

「瘡守薬王菩薩」

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「大圓寺薬王殿(瘡守堂)」 東京都台東区谷中

もともとは瘡守稲荷を祀っていたようですが、神仏分離の折に薬王菩薩として祀ることで、存続を図ったようです。近隣には笠森稲荷を名乗る社があと2か所あります。そちらと勘違いしたものか、あるいは同じ名前という所以からか、後述する「笠森お仙」の碑があります。

麻疹の潜伏期は10~12日間、38℃前後の発熱が2~4日間続き、咳、鼻水などの上気道炎症状や、結膜炎症状を伴います。症状が現れる1日前からウイルスを排出していて、発疹出現後4~5日目位までは人にうつす可能性があり、かつ感染力が極めて強いので注意が必要です。その後口内炎に似たコプリック班を生じ、続いて発疹を生じます。発疹は耳の後ろ側から始まって次第に広がり、一旦下がった熱も再度上がります(39.5℃以上)。発疹は隆起し、斑丘疹となりますが、水疱や膿疱になることなく退色し消失、7~10日後には回復します。

「笠森稲荷」(功徳林寺)

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「笠森稲荷」(功徳林寺) 東京都台東区谷中 功徳林寺境内

先にご紹介した瘡守堂に程近いため混同しやすいのですが、直接の関係はないようです。むしろ、この後にご紹介する養寿院の笠森稲荷とは複雑な関係があります。江戸時代は天王寺福泉院があった場所で、同寺が明治になって廃寺となったあと、明治26年に功徳林寺が設けられました。福泉院時代は境内に笠森稲荷があり、こちらも笠森=瘡守として疱瘡や梅毒治療に効果ありとして信仰を集めていました。参詣客を目当てに門前には茶屋があり、看板娘がいたそうです。江戸三美人といわれた彼女の名前は「お仙」。笠森稲荷の名を冠して笠森お仙と呼ばれました。笠森稲荷も福泉院の廃寺とともに一旦はなくなりましたが、現在再び元の場所である功徳林寺境内に勧進されています。

水痘すなわち水ぼうそうは、私が子供の頃は、子供が一度は誰でもかかる普通の病気という感覚でしたが、現代では子供の感染症というよりも、大人、それも中高年者が罹患し、難儀する帯状疱疹の原因としてのイメージが強くなっています。水痘自体は致死率が低いので、「お役三病」のひとつとするのには違和感がありますが、19世紀終わりになるまで天然痘との区別が明確にはされていなかったせいかもしれません。症状はよく似ているのですが、水疱の状態が「ヘソがあるのが天然痘、ヘソのないのが水ぼうそう」と伝えられています。

「笠森稲荷」(寛永寺養寿院)

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「笠森稲荷」(功徳林寺) 東京都台東区上野桜木 寛永寺養寿院境内

養寿院は寛永寺の子院として、最初上野山西辺にありましたが、大火や維新時の戦乱で二転三転し、大正6年に現地点に落ち着きました。一方、先の功徳林寺にあった福泉院が廃寺となるときに、笠森稲荷のご神体が当寺に移されます。そして養寿院境内に再建されたのが、こちらの笠森稲荷になります。

実はもうひとつ、江戸時代の庶民を苦しめた「かさ」があるのですが、そのお話はまた次回に。




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A.AKECHI

「現代でも坑ウイルス薬はなく」とありますが、幸い抗ウイルス薬があり薬物治療のできるウイルス感染症も幾つかあります。
 ここに挙げられた中では「水痘」で、アシクロビル等のヘルペスウイルス感染症治療薬が使われています。
by A.AKECHI (2020-09-16 10:28) 

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