SSブログ

いつか空が晴れる №91 [雑木林の四季]

   いつか空が晴れる
         -ジェルソミーナ-
                澁澤京子


 今は渋谷区が完全に撤去してしまったけど、昔、線路沿いの宮下公園にはホームレスのテントがたくさんあった。学生のとき、そこにいるホームレスの叔父さんたちと仲良くなった私はよく公園のベンチに座っておしゃべりをした。(なぜか若い時、私はよくホームレスの叔父さんから声をかけられた。きっと何か波長が合う所があったのだろう)

「あいつら、俺たちとそんな変わらない癖に、エラそうなんだよ!」ホームレスたちから嫌われているのは(手配師)と呼ばれている、日雇い仕事をあっせんする男たちだった。

夏でも冬でもいつも黒いブーツを履いていて、立ち止まっては布でブーツを磨いているショートカットの女の人は皆から(トシ子)と呼ばれていた。

トシ子さんは時折、一人で大声で怒鳴りながら歩く。炎天下、ブツブツと怒りながら片足をベンチにかけて、黒いブーツを布で丁寧に磨いているトシ子さん。

「・・・人間、ああなったらおしまいだねえ・・」彼女を横目で見ながら私の隣でつぶやくホームレスのおじさんは、ワンカップ大関を飲んでいた・・・

私が若い時、宮下公園にいたホームレスの叔父さんたちもトシ子さんも、もうこの世にはいないだろう。

コロナ自粛で家にこもっている時にすっかりはまったのが、清野とおるさんの『東京都北区赤羽』というエッセイ漫画。すべて彼と交流のある赤羽の住人(実在)とのエピソードで、登場人物の中でもとりわけ魅力的なのがベッティ(自称)さん。赤羽で神出鬼没のベッティさんは、まるでフェリーニ『道』のジェルソミーナみたいな無垢な人。赤羽という街が、彼女の登場によって一気に幻想的な雰囲気になる。ベッティさんは、時々、赤羽の商店街のちんどん屋にこづかれたり、いじめられたりしているのを目撃されるらしい、まるでフェリーニの映画のようではないか。作曲もするベッティさんは、ちんどん屋の演奏を聴いて思わずうれしくなって踊ったのだろう。バカにされても乱暴な扱いを受けても、まったく無抵抗で途方に暮れた感じのジェルソミーナ。ベッティさんが恥ずかしそうな顔で写っている写真か漫画の中で紹介されているけど、ジェルソミーナのようにも見えるし、あるいは寒山拾得のようにも見える・・

フェリーニの映画音楽には、よく、物哀しい楽隊の音楽が流れてくるけど、あれは彼が子供の時に聴いたものなのだろう。あの底抜けに明るくて淋しい楽隊の音色は、不思議と国境を越えたノスタルジックな何かを持っている。フェリーニの映画はほとんどが自身の記憶のコラージュで、記憶というのは、人の情緒や想像力と深い関係があるのかもしれない。

ジェルソミーナを演じたジュリエッタ・マシーナは、実際はすごいインテリ。ああいう役は、かなり高度な知性と、天賦の才能がないと難しいのじゃないだろうか。知性と、自我の殻を一瞬で壊して異世界にジャンプする能力と、そして何よりも子供の心と、人を観察して本質を見抜く力。

フェリーニもジュリエッタ・マシーナも、清野とおるさんも現実と夢の境界線上にいる人たちなので、夢と交信できる人たちなのだ。

ベッティさんはアーティスト。もちろん、ベッティさんには自我の殻は、ほとんどないので、公園でビニールのゴミ袋を両手に持って地面にたたきつけリズムをとり、それを伴奏に歌も歌う。英語でつぶやいたり、詩のようなものも書くし、かなりいい感じの絵も描ける。(彼女の作品は漫画の中で紹介されている)

自我が壊れて天真爛漫に生きているベッティさんには人を癒す能力があるので、清野とおるさんがベッティさんを好きな気持ちは、とてもわかる。

ベッティさんと、彼女に一目を置いている清野とおるさんとの交流が、実にほのぼのとしていていい。奇妙で奇抜で大胆だけど、実はとても遠慮深くて優しいベッティさん。もしかしたら、もともとは育ちのいいお嬢さんだったんじゃないか?という気さえしてくる。

清野さんがお小遣いを渡せば、必ず何か自分の作品を一生懸命に探して渡すベッティさんには、アーティストとしてのプライドがある。この漫画を読んで、ベッティさんのファンになり、実際に赤羽に行って彼女を探した人も結構いるのではないだろうか?

ベッティさんと波長が合ってしまう清野とおるさんも素晴らしくて、清野とおるさんと彼の才能を見初めた壇蜜という女優さんは、かなり優れた感性を持った女優さんなのだろう。

波長が合う、合わないは不思議で、どうも、その人の中の(子供)と関係あるような気がするし、その人が本来持っている旋律のようなもの、とも関係があるような気もする。

もう一人、とても気に入っているのが、山本さほさんという若い女性漫画家。

小学校の時からの親友が結婚することになり、もともと親友のために私的に描いた『岡崎に捧ぐ』というエッセイ漫画がとてもいい。

親友の家庭は実は崩壊家庭なのだけど、子供の視点から見ると自由のパラダイス。子供の頃の思い出のあれこれや、思春期の女の子の傷つきやすさもみっともない面も、その描かれ方が繊細でユーモラスで、上質の純文学を読んでいるような気持ちになる。

清野とおるさんも山本さほさんも、子供の自由な視点を持っていて、それとユーモアの質が、とても品がいい。それは彼らが、偏見のほとんどない、柔らかな優しい心を持っているからだろう。彼らのようなオープンで柔らかい心を持っていると、詩というものは星だの花だの雲だの、ありきたりなものだけじゃなく、その辺にいくらでも転がっているものなのかもしれない。

若い時と違って、街を歩いていても、ホームレスから話しかけられることのなくなった私。なんだかとても大切なものを失ってしまったような、淋しい気持ちになる。




nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。