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批判的に読み解く「歎異抄」 №12 [心の小径]

本願ぼこり(造恵無碍・第十三条)の問題

        立川市・光西寺住職  寿台順誠

(2)「薬あればとて、毒をこのむべからず」(親鸞の残した課題?)
 さて次にいきましょうか。
 「薬あればとて毒を好むべからず」という御消息の言葉を挙げて、「親鸞の残した課題」としておきました。実は先の『欺異抄』十三条の中にもありましたが、親鸞は「本願ぼこり」(造恵無碍)を戒めています。「悪人こそ救われる」と教えたからといって、だからわざと悪をした方がいいんだみたいな、そういう異義を親鸞は常に戒めているんです、自分の手紙の中でね。配布資料の注の十四にそれを挙げておきましたので、読んでおきますね。

 まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・暖意・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。しかるに、なほ酔ひもさめやらぬに、かさねて酔ひをすすめ、毒も消えやらぬに、なほ毒をすすめられ候ふらんこそ、あさましく候へ。煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあふて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ侯ふ。仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをぽいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべLとこそおぼえ候へ。(本願寺派『浄土真宗聖典』739一740ページ、大谷派『真宗聖典』561ページ)

 倫理道徳の問題に絞れば、親鸞の手紙はほぼこの間題で占められています。大体「本願ぼこり」とか「造恵無碍」とかは極論すれば悪人も救われるのだからわざと悪をやった方がいいのだというところまでいくわけです。親鸞はそれはおかしいよってことを、もう口を酸っぱくして言っています。『御消息集』の中心問題はそれだと言ってもいいほどなのです。
 そうすると親鸞の思想は『歎異抄』とは全然違うと思いませんか。『欺異抄』では悪は「宿業」で決まっており、自分ではどうにもできないという話になっている。親鸞は晩年、関東との手紙のやり取りの中で「薬があるからといって、毒を好むな」と一貫して言っていますので、それを読めば『歎異抄』が親鸞と違うのは明らかだと思います。それにもかからず「悪人正機」「悪人正因」とか、「本願ぼこり」とかが親鸞の教えだとされてきたのは、私は不思議で仕方ありません。
 が、それはそれとして、私は「専修賢善」に陥ることなく「造悪無碍」を克服することはいかにして可能か、というのが、善鸞事件などを経て親鸞が残し、浄土真宗教団に課せられた倫理道徳の課題だと言えるんじゃないかと思っています。以下、これを説明します。
 浄土真宗における「異義」(異端)には二つの対極的な立場があり、まず一方には「専修賢善」(賢善精進)があります。これはどういうことかと言うと、「どんな悪人も念仏だけで救われる」などと言ってきたが、そんなことを言ってきたから道を間違う者が出てくるんだ、やっぱり念仏プラスアルファが必要で、念仏以外に道徳を守っていかなきゃ駄目じゃないかというような立場です。そしてその対極にあって、「悪人こそ救われると言ってきたんだから、むしろ悪をやった方がいいんじゃないか」と極論するのが「造恵無碍」の立場です。そして晩年、悪は何でもやって構わないんだ、むしろやった方が救われるんだという「造悪無碍」の主張が目に余るようになったから、親鸞はそれを治めるために息子の善鸞を派遣したのだと私は思います。


名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より

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