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コーセーだから №66 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」27

       (株)コーセーOB  北原 保

大切な日頃の内部蓄積
いつでも対応できる準備

コーナー戦争
 「シャーベット・トーン」という流行色で、資生堂が東洋レーヨンとタイアップして『企業コンビナート・キャンペーン』にのり出したのは 昭和37年(1962年)のこと、化粧品業界は自由化の嵐の前に国際競争時代に入った。
 まず某大手制度品メーカーはチェーンの専門店に『コーナー政策』を打ち出した。コーナー政策とは専門店の店先にコーナーをとり、5年間の契約、そのコーナー作りはメーカーが負担してそのコーナーには他のメーカー製品を入れないというやり方。
 此の新方式を他の制度品メーカーが黙ってみているわけがない。コーセーをはじめ数社の大手制度品メーカーもすぐコーナー政策をはじめた。コーセーもカネボウ、マックスもはじめた。おくれてアルビオン、レブロンもわりこんできた。化粧品のコーナー戦争がはじまった。
 「コーセーも乗りおくれては大変だと、どんどんコーナーをつくらせましたが、コーナーには1人の美容師がつくというわけで、費用が大変かかりました。それだけにコーナーを設けた5社は、それから売り上げがぐんぐん伸びたことは事実ですね」(小林社長)
 当初、コーナーをはじめたメーカーは「自由化対策だ」といっていたが、結果は一般品に影響するところが大きかったようだ。
 なにしろ、有名小売店の店頭は、有力メーカーのコーナーが雑居しているようなもの。各コーナーに各社の美容師がいて販売競争をする。小売店の中から「これじゃまるで店主不在の経営じゃないか」という批判も出た。業界紙も「自分の店は自分で経営する自主性を持て」と書きたてた。が、結局は客が満足するなら一品政策をやめて、店の中に4~5メーカーのコーナーを設けるということになった。小売店にすれば人手不足の時代とあって、一挙両得というわけ。
 「コーセーもコーナーをつくり成績を上げていますが、当時は美容部員の養成や補充がたいへんなことでしたよ」(コーセー人事部)
 コーセーでは、来春の卒業者の美容師だけの採用人員が600~650人、いまから入社式を万端ととのえておくといったぐあい。現在コーセーでは全国に2千数百人の美容師がいるというからたいへんである。
 「他社のことは知りませんが、コーセーは人材育成が基本的な考えなんです。女性の責任者(主任、副主任)をおき、その下にブロック長がいる。最初は、はじめに教育をやっていましたが、最近は全国で半年間実習をしてから東京に集めて社員教育をすることにしていますよ」(小林聰三専務)
 このコーナー政策は、化粧品業界の寡占化にとどめをさした。コーナーをつくれるメーカーとつくれないメーカーでは、はっきり差が出た。小林社長は「経営というのは、いつでもすぐに対応できる準備をしていることだ。これは大事なことですよ」という。ちょうど、昭和39年(1964年)にはオリンピックブームにわいていたころだが、不況旋風がそろそろ吹きはじめていた。
 各企業は昭和30年代の経済成長の波にのって急激に設備投資が行われたが、国際収支の赤字が累積して、日本経済に大きなヒズミが生じた。それを是正するために金融引き締め政策がとられていた。銀行は貸し出しを警戒して多くのメーカーや下請け企業が倒産した。
 当時、コーセー化粧品は狭山工場の第一期、第二期の工事に5億円をかけていた。いくら手形取引きは一切やらない会社とはいえ、右から左に5億円の金が出るわけではない。銀行からの融資でまかなっていた。
 「そのころのコーセーは含み資産が相当あったので、一年間ぐらい返品の影響が少しあったにしても銀行もコーセーには特に警戒することもなく、不況の中でも工場建設を進められたのです。日ごろの堅実経営により内部蓄積が如何に大切であるかいまさらのように感じました」
 小林社長は当時のコーセーを思いうかべてみる
                                          (日本工業新聞 昭和44年11月11日号)
*『コーナー政策とは専門店の店先にコーナーをとり』――取引契約を結んでいる化粧品店の店内に、自社の化粧品だけを陳列し販売するための専用のコーナーを作ること。

第27回.jpg
化粧品業界にコーナー戦争が始まろうとしていた頃の小林孝三郎社長(左から2人目 1963年のコーセー会全国大会で)


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