SSブログ

過激な隠遁~高島野十郎評伝 №35 [文芸美術の森]

第六章 個展の会場にて 6

          早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「在るに非ず、また在らずに非ざるなり」

 三番目の挿話は画家があたかもそれを消し去るかのように、両手で振りまいた「在るに非ず、また在らずに非ざるなり」という否定語のつらなりである。バレエを身体運動として分析したウォリンスキーはドストエフスキー論(『美の悲劇』)で、『白痴』のムイシユキン公爵がわれ知らず大きく手をふりまわすのは、言葉では言い表せない何か大いなる思想を視覚的に相手に呼びさまそうとするからだという。
 高島さん自身も相手には自分の思いが伝わらぬことを知っているような諦めとも逸楽ともつかぬ微笑があった。
 「在るに非ず、また在らずに非ざるなり」と言うとき、画家は両手を交互に内側から外側へ、なかば下から上へと楕円に沿うようまわし、笑いながら謎めかして言う。それはかれのものの見方の根本を集約したものらしい。
「在るに非ず」とは、「在るものは実際は存在しない」という簡単明瞭な事実である。次の「在らずに非ざるなり」は、しかし「また同時に無いということもない」という二重否定の論理である。つまり最初に「存在の否定」があり、つぎに「否定の否定」がある。有を否定するかと思えば、無をも否定する。これを理解するには、汝の敵の敵は汝の味方であるという方程式があるていど役立つ。
 ここで一つの問題が生じる。「存在の否定(有の否定)」と「否定の否定(無の否定)」は同一なのか異質なのかという問いである。その答えが高島さんが私にくれた嘉祥(かしょう)大師の『三論玄義(さんろんげんぎ)』にあることを、私はのちに知った。そこには有の世界である「俗」の領域と無の世界である「真」の領域があるとされており、それぞれに真理がある。つまり私たちの世界である俗には俗の領域の真理があり、非俗には非俗の領域の真理があって、二つの真理が存在する。
 『三論玄義』によれば、有と無、俗と真の領域にはそれぞれの真理がある。つまり私たち凡夫が暮らすこの世俗にも真理があり、もちろん神の世界にも真理がある。では二つの真理は別々のものなのか。それとも共通点を持っているのか。ある僧は「二つの真理は異なる」と説くが、ある僧は「二つの真理は一つである」と説くのに、嘉祥大師によればそれは両方ともまちがっている。正しくは二つの真理は一つでもなく異なるのでもない(「二諦は不一不異」)。どうも話がうまく運ばれすぎて、キッネにだまされているような気になるが、嘉祥大師は二つの主張を結びつける橋架けとして「中道」があることを説く。中道を主張する『中論』は龍樹(りゅうじゅ)といわれる人の経典というより哲学書である。
 俗と聖の間、有と無の間、「在るに非ず」と「在らずに非ざるなり」の間を往来する通路があって、両者はどこかで重なり合っている。
 高島野十郎は「在るに非ず、また在らずに非ざるなり」の前文と後文をつなぐ「中道」としての通路を会得したのであり、ものの裏と表が、この世とあの世が、光と闇が、炎と消失が同時に見えるような視点と、二つの間の中道を往来する秘法を獲得したと思われる。その宙に浮いて渡るような快感を、かれはあの手ぶり身ぶりで表そうとした。
 あるときかれは「秘すればこそ」とだけ言い、あとは無言だった。おそらく世阿弥の『花伝書』以上に空海の密教思想が念頭にあっての発言である。「在るに非ず、また在らずに非ざるなり」と口で唱えれば分かるものでもない。「俗」と「真」をつなぐ融通無碍(ゆうずうむげ)の中道である通路をとおしてこそ、他者に伝えることの不可能な、そして秘すればこそ逆にふかく、言葉にならぬ言葉を暗示できると思っていたのだろう。

『過激な隠遁』 求龍社


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。