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いつか空が晴れる №90 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
   -『星と嵐』―
   ~生命、生きていることの この得難い喜びよ~ ガストン・レビュファ
                澁澤京子

 学生の時の夏、家族で八ヶ岳から車で帰る途中に交通事故にあって、清里の聖路加病院に一か月ほど入院していたことがあった。
帰る日は雨が降っていて、すれ違う大型トラックが跳ね飛ばした大きな石が、車のフロントガラスを割って助手席に座っていた私の鎖骨を直撃したのだ。漬物石くらいの大きな石で、ちょっと石の位置がずれて心臓や肺に直撃していたら危なかったという事を、後で医師に言われ、ほんの少しの違いで、人はあっけなく死んでしまうものだ、ということを知った。生というのは人間には計り知れない、何か不可抗力な大きな力によって動かされているということがその時、初めてわかったのだ。

清里の聖路加病院は、今はもうなくなってしまったけど、クラシックな平屋造りの療養所で、食事がとてもおいしかった。(デザートのアップルパイもちゃんと温めてあって、自家製アイスクリームがのっていた)
私が入院していたのは4人部屋で、斜め前に入院しているおばさんのところには、よく農家のおばさんたちの見舞客が入れ替わりやって来て、ついでに私にも自家製のお新香だのお菓子だのを持ってきてくれるのだった。素朴で人の良さそうに見えるおばさんたちの話題は、いつも近所の人のうわさ話や誰かの悪口なのだった。

廊下の窓からは牧場が見えて、夏の空には雲が浮かんでいた。病院の図書には、誰か登山の好きな人が置いて行ったのか、ガストン・レビュファの『星と嵐』があって、私は夢中になって読んだ。事故にあってから、そうした名クライマーたちが、自宅のソファでくつろぐ安楽よりも、冷たい雪や雨にさらされ、かじかんだ手で岩壁にしがみついている方を選ぶ気持ちがなんとなくわかるようになってきた・・生というのは命を懸けて真剣に生きるに値するものなのだ。(最近はヤマケイ文庫で再販されている、ヤマケイ文庫では新田次郎など優れた山岳ドキュメンタリーが読めるようになっている)
事実は小説より奇なり。この世界、現実というものは空想やファンタジーよりもずっと神秘で素晴らしい、ということに気が付いて、私は自宅に帰ってリハビリしている間も、探検記やノンフィクションをむさぼるように読むようになった。

『星と嵐』で、なんといっても素晴らしいのはクライマー同志の友情で、一本のザイルでつながれた相棒に自分の生も死も託すわけだから、その信頼関係はゆるぎない。また、絶えず自然を相手に死の危険と隣り合わせにいるクライマーは、優れた勘の持ち主が多い。
数学者の岡潔さんは、人間関係の中で最も美しいのは「友情」であるということを書かれていて、「友情」には血縁関係のべったりした感じもファミリーエゴイズムもない、さらさらしていて清らかで最も純粋な関係なのだ。古代ギリシャ人が「友情」を特に重視したのも、「友情」は人間関係の損得、打算といった不純物やエゴイズムの混じらない、そうした俗を超えた聖域にあるものだからだろう。

たとえ、たった一人でも信頼できる友人を持っているというのはとても幸福なことで、そうした「友情」は無私の愛を教えてくれるだろうし、人に対する洞察ももたらしてくれるかもしれない。
「友情」ほどかけがえのない宝物もないだろう。

私が20歳を超えたばかりの頃にあった交通事故とガストン・レビュファの『星と嵐』は、それまでの私のつまらない厭世観など吹き飛ばすほど、人生観を変えたのであった。
結局、さすがにアイガー北壁やエベレスト登頂のような本格的な登山はできなかったものの、それから私は登山(ハイキング程度だったけど)やダイヴィング、自然と接触することに夢中になった。冬の南アルプスや八ヶ岳で見える星空が壮絶な光景であることを考えると、彼らの見た星空は一体どんなに迫力があったろうか?自然も生も(意味・無意味)のような人間の分別を遥かに超えて素晴らしい。そして人が安定を捨てて、さらに高みに挑戦するためには、そのベースには「友情」のような信頼関係や、何よりも自然との強い信頼関係や愛が必要不可欠なのだということを知ったし、ほんのわずかの差で命拾いした経験は、私の自然と世界に寄せる信頼を取り戻してくれたのかもしれない。

その後、結婚して子供を産んだら、一時期はジェットコースターも怖くて乗れないほど、極度の高所恐怖症になった私。子供を育てている時は、女は強くなるとよく言われるけど、強くなるのは防衛本能であって、特に小さな子供を育てるとき、女にはそうした防衛本能は必要なのかもしれない。
しかし、(最大の攻撃は防御なり)とあるように、暴力の最大の要因は自己防衛本能じゃないかとも思っている。つまり、暴力と差別の根源にあるのは、恐怖心や未知のものに対する不安、自己を守ろうとする過度の警戒心ではないだろうか?

若い時は、初対面の人に「探検部です。」などというと、大概、相手の顔に冷笑が浮かんだりしたものだったけど、最近は角幡唯介さんという(私のクラブの後輩にあたる)探検家が素晴らしい探検記や優れたエッセイを書いていて、私の在籍していた時代よりもっと本格的な活動しているんだなあ、と感心する。ネットやスマホでバーチャルな世界が蔓延している時代だからこそ、「生のリアル」を切実に求める人はこれから増えるのかもしれない。そして、人が安定を捨てて極限状況を求めるのは、宗教的な神秘体験を求めることにすごく似ているような気がする。そういったギリギリの状況を経て、はじめて生がその本来の美しさを見せてくれることがあるからだ。

私たちが本当に戻りたいのは、まだ自然と親密だった子供の頃であり、さらに遡れば、私たちを此の世に送り出した自然そのものじゃないだろうか、と最近しみじみと思うのである。


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