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批判的に読み解く歎異抄 №11 [心の小径]

本願ぼこり(造恵無碍・第十三条)の問題

           立川市光西住職  寿台順誠

(1)宿業の問題

 それから最後に言いたいのは、論理自体の説得力です。例えば 「人千人ころしてんや」というところからの親鸞と唯円のやり取りについてですが、私は以前からこれを見ながら説得力がないじゃないかと思っています。千人どころか一人も殺せないことの理由として、果たして「宿業」は説得力があるのか、人を殺せないのは殺人が悪であるという規範が共有されているからじゃないかと私は思うのです。私は法学研究も長いことやってきたのですけど、有名な法格言で「社会あるところに法あり」(ubi sociietas, ibi jus)という法諺(ほうげん))があります。人間の社会がある所には必ず法律やルールがあるのです。普遍的なルールとして、社会のあるところ、国が成立したところにはほぼ全てに殺人罪があります。ということは、人間には人を殺しちやいけないという道徳規範が普遍的に共有されているということです。よく人間の行動は遺伝子的に全部プログラムされているなんてことを言う人もあるけれど、たぶん人間という生き物は、他の動物よりも環境とか後天的な要素に影響される度合が強いと思うのです。かつてインドで発見された「アマラとカマラ」という二人の少女が狼に育てられて狼のようになってしまったという話がありましたが、オタマジヤクシが人間に育てられたら人間になったってことはないわけですよ。ところが人間は育てられるものになってしまうような、とても社会性の強い存在だから、やっぱり人を殺しちやいけないっていう道徳規範や法規範を我々は物心つく頃から色んな所で教え込まれて、社会化されるわけです。そういう規範がインプットされ、共有されている社会だから、人は普通は殺し合わないのだと思いますね。もしそぅいう社会でなく、「造恵無碍」が当然のようなところで生まれ育ったら、殺すのも当たり前だってことになりますよ。今だって、国の違いによって、例えば紛争地域なんかで生まれ育ったら、やっぱり我々とは違う考え方をするかもしれませんね。結局、社会化の過程が問題なのだと私は思っています。

 十三条には「害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」なんて書いてあるけれど、本当にそんなこと言えますか。一人だったら間違って過失かなんかで殺してしまうこともあるかもしれませんが、百人・千人も殺すのはかなりの意識がないとできないと私は思います。私は今「生命倫理」の勉強も片方でやっているので、例えば医療行為で考えてみると、ある医師が間違って手術に失敗して患者が死んじゃったというような場合には、これは誤って殺した(過失致死)と言えるかもしれません。でも、ある医師が短期間に百人死なせたとなれば、これは意図的な殺人だと考えるのが妥当でしょう。間違って百人殺しますか。そんな医師はたぶん途中でやめさせられますけどね。が、とにかく一人も百人・千人も一緒だという議論は土台無理で、あまりにも乱暴なのです。道徳や法について少し真面目に考えた人だったら、こんな論理に説得力はないと思うのではないで

しょうか。

 さらに補足しておきますと、十三条の「人千人ころしてんや」という話は仏典の中のアングリマーラの話を念頭に置いたものだと言われています。アングリマーラについては資料の8ページに『ウイキペデイア』(Wikipedia)の該当する部分を写しておきました。今はその一部だけを読みます。


 (アングリマーラの本名はアヒンサと言い、十二才から、あるバラモンに師事してヴエーダを学んでいたが)ある日、師匠が王の招きにより留守だったが、師の妻がアヒンサに邪に恋慕し誘惑した。しかしアヒンサはこれに応じず断ると、その妻は自らの衣を破り裂き、悲相を装い師の帰りを待って「アヒンサに乱暴された」と偽って訴えた。之を聞いた師は怒り、アヒンサに(一説には術をかけたともいわれるが)、剣を渡して「明日より、通りで出逢った人を順に殺して、その指を切り取り鬘(首飾り)を作り、百人(あるいは千人)の指が集まったとき、お前の修行は完成する」と命じた。彼は悩んだ末に、街に出て師の命令どおり人々を殺してその指を切り取っていった。これにより彼はアングリマーラ(指鬘)と呼ばれ恐れられた。なお、この頃の彼を指鬘外道(しまんげどう)と呼ぶことがある。


 先の「人千人ころしてんや」というのはこの話を念頭に置いたものでしょう。ただこの話の原典である仏典の翻訳(注参照)にも目を通してみたのですけど、この話は運命論には役立てられないと思います。(注‥『南伝大蔵経・経蔵・中部経典3』(第十一巻上) 大蔵出版、1971年〔再刊〕131-142ページ、片山一良訳『パーリ仏典 中部(マツジマニカーヤ)申分五十経篇Ⅱ』大蔵出版、2000年、17ページ、280-293ページ、568-574ページ、中村元監修『原始仏典中部経典3』(第6巻)春秋社、2005年、203-215ページ、574-582ページ)何をもってこの話が、あの『歎異抄』十三条の運命論に役立てられるのか、私にはその因果関係がよく分かりません。このアングリマーラの話というのは、自分のお師匠さんの妻が横恋慕してアングリマーラを誘惑したけど、それに乗らなかったので恨みを買って、逆に犯人にされちゃって、それでこのお師匠さんに「おめえ百人か千人殺してこい」と言われることになったというもので、それで自分の意思では断り切れないということで九十九人(或いは九百九十九人)まで殺しちゃったという話ですが、これを「運命論」に繋げるのはどうかと思うのです。というのは、この 『アングリマーラ経』の話はそこに主眼があるのではなくて、こうやって百人の場合だと九十九人、千人の場合だと九百九十九人まで来たところで釈迦に出会って改心することが重要なのです。ただ改心して自分のやってきた罪を悔いて、そして出家して釈迦の弟子になったって、こんなに多くの人を殺害してしまった人ですから、皆がそれを覚えているわけですよ。だから、「あいつ出家して殊勝な顔しているけど、怪しからん奴だ」と、道で遇うと石を投げられたりするんです。そんな彼が釈迦に「耐えなさい」って言われるんです。何のために耐えるかっていうと、その罪を次の世まで持ち越さないためなのです。この現世でそれに耐えきればそれで終わるのだという話です。つまり「自業自得」ということですね。自分でやったことを自分で引き受けるって話、それを引き受け切ったからこの人は悟ったのだというのがこの話の主眼なのです。そういうストーリーを考えると、『歎異抄』十三条の、「人を殺すか殺さないかは宿業で決まっているんで、自分の意思とはほとんど何も関係ない」っていう話と繋がらないんじゃないかと思うのです。もし別の読み方があれば是非教えて頂きたいと思いますが…。


名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より






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