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渾斎随筆 №63 [文芸美術の森]

現代の書道 4

               歌人  会津八一

 それから、日展の書道を見てめぐるうちに、筆法の問題が強く私の心を惹いた。しかし私のいふ問題とは、うまいとか、うまくないとかいふのではない。筆法の重要性が、だいぶ取りちがへられてゐるのでないかといふところに私が問題を感じたといふのだ。
 筆法といへば、何かいかめしい法則のやうなものがあるやうに、普通には思はれやすいが、書道ばかりでなく、何事にも、最初から法則などいふものがあるものでない。われわれの見慣れてゐる毛筆が、まだあちらでも発明されないうちに、それよりもずつと前に、もう文字は出来てゐたのだから、刃物で木に刻むとか、獣骨や亀甲や、或は銅板などに刻みつけるとか、または箆(へら)か何がで粘土や蝋塾に刻みつけるとか、いろんなことで、古い頃の文字は記されたにちがひない。今日お習字の先生たちが、もののみごとに、使ひこなされる毛筆が出来て、それが完成されるやうになったのは、ずつと後のことだ。だから、この毛筆をよく使ひこなすために経験上作り上げられたものであって見れば、今日にいふところの筆法といふものは、もとより便宜上のもので、決して根本的のものでない。書道にもしもつと大切なものがあれば、骨法とでもいふべきものが、あるのでないかと私は思ふが、ただ腺の曲げ方とか、はね方とかを、手ぎはよくやるための筆法ばらば、着物にたとへるならば、世の中が進み進んで優美になって、袖や裾が長くなった時に、その長い袖を上手に振ったり、長い裾を上手に踏みさばいて、踊ったりするには、相當に手心がなくてはならない。その手心が即ち書道でいふ筆法だ。だから毛筆を用ゐてゐる限り、便利なものにちがひないが、決して根本的なものとはいへない。けれども、その練習もなまやさしいものではないので、随分熱心に勉強しなければならない。そこで皆がその勉強に夢中になる。そして、これこそ書道の一番大切なもののように思はれることになった。するとそんなことを、専門的に研究して、うまく人に数へる人が出て来た。だから筆法が大切になるには、毛筆の材料や構造が黙らしめたという事を忘れてはならない。
 けれども現在のわれわれの生活を見るに、主人は萬年筆、奥さんは鉛筆といった風で、いつのまにか毛筆はあまり用ゐられてゐない。そして學校でも、毛筆はあまり喜ばれてゐない。かうした世の中になっても、さすがに書家先生は特別に証文して、もとの通り立派な毛筆を持ってゐる。しかしいかほどよくそれを使ひこなしてゐるにしても、世上の大勢からいへば、筆法などいふものはすでに實生活の必要から、かなりかけ離れた技巧になりかけてゐる。こんな世の中になってゐるのであるから、書家たちが、ほんとに物を書いて、この世の中に貢献したいならば、全くあたまを切り替へて、ペソキ屋の持つ尖の平たいブラッシの筆法や、萬年筆や鉛筆の、細い針金のやうな線のために、能率の高い筆法を工夫してゐなければならない。何事でも新しいものは、すべて無趣味だとか殺風景だとかいって嫌ふけれども、これらの新しい筆は生活の必要から根深く産み出されたものであって見れば、今日の書家たちの呪阻ぐらゐのことで消えてなくなるものではない。そしてたぶん書家たちも、たいてい毎日これを愛用してゐられることと思ふ。もしこれらの硬い筆を廃止することが出来ぬならば、その硬い筆の吐き出すところの細くて硬い線の中から、どうしたら荒を見出し得べきかに、心を盡さなければならない。これこそ在来の毛筆による筆法の研究よりも、もっと意味の深い研究であらう。日展には別に篆刻もあるが、これは印刀で石や堂に篆文を刻む。これはもとより一つの立派な書道である。このやうに、ペンや鉛筆で硬い西洋紙の上に物を書いたものが、日展の書道部の一つの種目となる日が遠くないやうにしたいものだ。(昭和二十五年二月)
                                『中央公論』第六十五年第二号昭和二十五年二月

『会津八一全集』 中央公論社

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