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じゃがいもころんだⅡ №32 [文芸美術の森]

中村汀女

            エッセイスト  中村一枝

  咳の子のなぞなぞ遊びきりもなや

 中村汀女の俳句の中でもきわだって有名で、よく引用される。子に対する女の情愛、とまどい、不安、さまざまなの思いがこの五・七・五の中に凝集されている。汀女の俳句は使っている言葉が平易でとてもわかりやすいのだが、そこに広がる世界は小説家の描く親と子の情愛以上に深く強烈である。
 私は汀女を知るまでは、俳人というものは芭蕉みたいに、一見、世を捨ててひっそりと自分の世界を築いていく人なのだと、簡単に思い込んでいた。
 汀女の俳句を知るようになってこの五・七・五の短い言葉の中にひろがる世界の大きさ、深さに、今更ながら、自分の無知を思い知る始末である。
 汀女に初めて会った時、何か、強そうなおばあさまだと思ったのだが、汀女の強さは俳句という筋金が入ってこそ見えてくる。
 強さというより、俳句という短い表現のもつ、底知れぬ深さである。
 江津という、熊本の町からすこし離れた川のほとりに生を受けたというのも、汀女にとって大きな恵みである。人間も」人格も、変にいじくりまわされることなく、のびのびと、両親の愛を受けて育った。おそらく、汀女の父も母も、たった一人の子を授かったという思いで、ただ大切に、傷つけることなく育てることに心を配ったに違いない。それも江津湖という川のほとり、子どもの時から、大事にされながらも、自然に、自由に育ったのは、当時の女性としては、何とも幸せなことであった。
 幼い頃から川遊びに興じ、船を操ることを覚えた少女は、なんとも豊かな少女時代を過ごしたのだった。
 女学校に進学した汀女は(当時農家の娘で支障なく女学校に進学できる環境がまた珍しい)そこでも充分にその恩恵を享受できた。
 毎日、学校の図書室に入り込み、古今東西の名著に読みふけった。私はたまたま汀女の女学校時代のノートの切れ端を読む機会があり、今、なんであれをとっておかなかったか、残念で仕方がない。誤字のほとんどない文章で、名作についての読後感がつづられていた。それが的確で、事物に流されることのない、彼女なりの卓見に終始しているのに驚いた。汀女はひょっとして俳人にならなくとも女流作家として十分通用できたのでhないかとその時思った。
 汀女は私が単純に思い描く文学少女の域を越えた才能をもっていたのではないかと思ったのである。
 当時文通していた大学生がおり、それが汀女の初恋の人ではないかという話もあるが、どうも私には、汀女がそういうありふれたものとは一線を画した世界にすこしずつ興味を持ち始めていた気がしてならない。それでもふつうの結婚をし、子どもを生み、育て、妻として母としての人生も歩んでいたのだ。
 汀女が後年の汀女になるために、何が踏み台になり、何が転機になったのか、もっと深く知りたい思いは強い。
 汀女の句はどれもやわらかでわかりやすいが、特に横浜時代の五句は私の大好きな句である。

    さみだれや船がおくるる電話など
    あれこれとさみだれ傘の重かりし
    晩涼や運河の波のややあらく
    地階の灯春の雪ふる樹のもとに
    とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな

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