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医史跡を巡る旅 №71 [雑木林の四季]

「医史跡を巡る旅」番外編 №71 緊急寄稿「ねんねんコロナ、ねんコロナ」

           保健衛生監視員  小川 優

ほぼ半年ぶりの投稿になります。
前回はWHOがCovid-19、新型コロナウイルスの世界的なパンデミックを宣言する前の3月でした。その後4月には政府により緊急事態が宣言され、5月25日には解除されましたが事態は収束の気配もなく、再拡大が進行中です。
現在の状況は確かに、宣言に至るまでの急激な患者、そして重症者急増の局面とは若干異なります。とはいえ拡大のペース、範囲についてはもう既に過去を凌いでいます。実態として、槍玉にあげられた「夜の街」だけではなく、市中感染として、職場や、家族内に確実に広まっており、さらにGO TOやお盆の帰省が火に油を注ぐ結果となって、もはや制御が難しい状態になりつつあります。

「病流行 早々私ヲ写シ人々ニ見セ候」

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「肥後国海中の怪(アマビエの図)」~京都大学附属図書館所蔵

今回の画像は、疫病にまつわる民間信仰を集めてみました。
まずはすっかり有名妖怪の仲間入りをした、「アマビエ」から。

肥後国海中江毎夜光物出ル 所之役人行
見るニ づの如之者現ス 私ハ海中ニ住アマビヱト申
者也 當年より六ヶ年之間 諸国豊作也 併
病流行 早々私ヲ写シ人々ニ見セ候得と
申て海中へ入けり 右ハ写シ役人より江戸江
申来ル写也
弘化三年四月中旬

感染者の増加に伴い、受け入れ態勢も再び限界が見えてきています。
民間検査機関の検査力増強により、初夏の頃に比べて大幅にPCR検査能力は上がっていますが、感染者の拡大により濃厚接触者も増加、さらに濃厚接触者の定義には当てはまらないが検査を必要とする無症状の人も増え、余裕があるとはとても言えない状況です。
また保健所を通さなければできないといわれたPCR検査も、自治体や医師会の設置するPCRセンター、そして検査協力医療機関として積極的に検査に取り組む地域のお医者様が増えたことで、検体を採取できる場所が格段に増えました。一方で自費の検査を実施する診療所もありますが、値段が高いこと、施設によっては検査方法や精度に疑問があること、結果が陽性と出てもその後の治療に速やかに結び付けないことなど、多くの問題をはらんでいます。
さらに感染者を収容しようにも、医療機関の病床は多くの地域で限界に近づいています。病床を増やすためには、ベットを確保するだけではなく、スタッフを揃えなければなりません。春から従事し続けているスタッフは疲弊し、新たな人員の確保も思うように進みません。
軽症者は宿泊機関に収容することとなりますが、宿泊者が皆無だった緊急事態宣言下ならともかく、GO TO で利用者増加を見込むホテル業界が積極的に協力してくれるとは限りません。ホテルの確保ができていないことで政権要人は自治体を責めますが、確保し辛い状況を招いたのは、さらに感染拡大を招く政策を積極的に進めているのは、いったい誰でしょうか。

「疱瘡神社」

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「疱瘡神社~神奈川県三浦市三崎 海南神社境内」

疱瘡、天然痘は古くから日本でも度々流行し、人々を苦しめてきました。民衆はこの疫病から逃れようと、様々な神々に祈ります。疱瘡神社、疫神社、瘡守神社など、呼び方もいくつかありますが、各地に見られます。
神奈川県の三崎にある海南神社は、清和天皇の皇位争いに巻き込まれ、落ち延びてきた藤原資盈を祭神とする神社で、三浦半島の総鎮守とされます。境内に疱瘡神社があり、平安時代末期の武将、源為朝を祭神にしています。為朝は弓の名手でしたが乱暴者で、保元の乱で敗れ伊豆大島に流刑となります。しかし、ここでも朝廷に従わなかったために追討されました。言い伝えでは、当時疱瘡が流行りましたが、為朝のいる大島には患者が出なかった、剛の者の為朝がいるおかげで大島に痘神が寄り付かなかったとされます。そのため疱瘡除けの祭神として、祀り上げられているとのことです。

感染症、とくにパンデミックの対応は、間違いなく国の仕事です。ウイルスに県境はなく、それどころか国境も容易に突破します。広域的な対応は必須で、対応は自治体任せでは効果が期待できません。持ちうる知識、技術、そして人員、資材、財源の全てを投入しての真剣勝負です。自治体間の協調や、資材・人員の融通も国がイニシアチブをとる必要があります。
大きな失策が連鎖し、取り返しのつかない状態となれば、社会不安と混乱を招き、国家自体の存続にも関わります。歴史上、国家滅亡の遠因として疫病が関わった例として、ローマ帝国や、明朝などが挙げられます。徳川幕府の屋台を揺るがせたのも、末期の度重なる疫病の流行が少なからず影響しています。まさに感染症の制圧は、国家の大事、戦争と同じです。

京都の三大祭のひとつ祇園祭は、疫病や恨みを抱いて亡くなった怨霊を鎮めることを目的として、朝廷が執り行った御霊会が始まりとされます。疫病の原因が疫神や怨霊によるものと考えられていましたから、これらを鎮撫することによって疫病を収め、国家安寧を図りました。治療法が加持祈祷しかない時代、時の施政者は疫病対策には頭を悩ませたことと思います。祭りが真夏に行われるのも、厚い時期に疫病が流行ったためでしょう。最初は政権維持の為に為政者が始めたこととはいえ、祭りという形態、そして健康にありたいという貴賤を問わない願いゆえに、庶民に広まり、歴史を超えて受け継がれました。
因みに祇園祭の最後を飾るのが、八坂神社の夏越祭。境内に茅の輪が設置され、これを潜ることで無病息災を祈ります。同じように各地に神社にも6月(水無月)下旬には茅の輪が設置されます。

「水無月の 夏越の祓する人は 千歳の命延ぶというなり」

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「五條天神社 茅の輪」~東京都台東区上野公園

「茅の輪の由来は「備後国風土記」の蘇民将来の伝承によります。善行をした蘇民将来が素戔嗚尊から「もしも疫病が流行したら、悪疫除去のしるしとして、茅の輪を腰につけると免れることができる」といわれ、疫病から免れることができたという伝承です。」~神田明神ホームページより

現代に立ち戻って、今まさに政府は現状に手を拱いている、或いは傍観しているだけのように見え、感染拡大防止の具体的な対策は、自治体に押し付けているように感じます。いや、自治体どころか、国民一人一人に自己責任として押し付けています。自己責任と義務とは、大きく異なります。法律に基づく「義務」を国民に課すことは、国民にとっても大きな負担となりますが、翻って考えれば義務を果たす限り、国民を守り、最終的な責任を国がとることを意味します。一方で感染拡大どころか感染そのものを自己責任とする風潮は、感染したこと自体を「悪いこと」と捉えることにも繋がり、個人攻撃、自粛を声高に訴える人々の格好の標的とすることに繋がります。このような状況を見るにつけ、国、今の政権に、積極的に、国民に寄り添ってコロナ禍を乗り越えようという気概が感じられません。
なにより、誰にでも明らかで、共感してもらえるメッセージを国民に向けて発することが、国、政府の責任ではないでしょうか。

「太田姫稲荷神社」

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「太田姫稲荷神社」 ~東京都千代田区神田駿河台「太田姫稲荷神社」

お茶の水駅聖橋口から、ニコライ堂の裏を通って坂を下ったところにあります。最初に江戸に城を構えた太田道灌の娘が天然痘に罹り、当時霊験があらたかと伝えられていた京都の一口(いもあらい)稲荷神社にその平癒を祈願しました。間もなく娘が病から回復したことから、祭神を江戸に勧進し、社に祀ったと伝えられます。当時は一口稲荷神社と呼ばれました。「いもあらい」とは、疱瘡つまり天然痘の別名「いもがさ」の膿を洗う意味から生じています。(諸説あります。)

「太田姫稲荷神社元宮」

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「太田姫稲荷神社元宮」 ~東京都千代田区神田駿河台「御茶ノ水駅臨時改札口」脇

当初、一口稲荷神社は中央線御茶ノ水駅の東京駅寄りの場所にありました。明治5年に太田姫稲荷神社に改名、さらに中央線の工事に伴って昭和6年に現在地に移転しています。太田姫の由来ですが、私も太田道灌の娘だから「太田姫」と勘違いしていたのですが、太田姫稲荷神社由緒によると「百人一首の歌人で、平安時代の貴族であった小野篁が、左遷されることとなり都を離れます。船旅の途中で海が荒れ、篁が観音経を唱えると白髪の老翁が現れて、自らを太田姫の命と名乗ります。そして「罪はやがて許され、都に呼び戻されるだろう。しかし疱瘡に罹れば命が危うい。自分の姿を祀れば、その病から免れることができるであろう」と告げました。篁はその教えを守り、山城国一口に社を奉じました」とあります。この話、疫病除けの神社であることも相まって、どこかアマビエの話を彷彿とさせますね。

「太田姫一口稲荷風邪咳封治御守」

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太田姫稲荷神社でいただける御守です。まさに新型コロナウイルス除けにはもってこいです。外紙には神社の由緒が記されています。

祇園祭の始まり自体1000年以上も前の話、為政者も民草も加持祈祷でしか疫病からのがれるすべを知らなかった時代ですが、もう少し新しい時代ではどうでしょうか。江戸時代末期から明治時代にかけて、何度も疫病の流行が繰り返されます。
次回はそのお話をしたいと思います。

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