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バルタンの呟き №79 [雑木林の四季]

「昭和21年の8・15」

            映画監督  飯島敏宏

終戦一年目の8月15日の正午、多分、電信柱に取り付けたラウドスピーカーからの有線放送とかラジオとか、サイレンの音と共に、全国で、戦没者慰霊のために、黙とうを捧げたに違いないと思います。僕の記憶には、その日のことが残りませんでした。その時、僕は、父方の実家に疎開していたのです。戦時に行われた本土決戦のための疎開ではなく、終戦後の、名づけるとすれば、食料疎開です。
僕たち一家は、その前年の昭和20年の3.15,4.13.そして5.15と、3度空襲で焼け出されましたが、戦後も、5・15で焦土化した敷地内に焼け残った土蔵の倉に、貸主の好意に甘えて、3.10で焼かれた旧居に家を建てるまでの約束で住まわせて貰っていたのです。
終戦後の食糧事情は、戦争中よりもはるかに厳しく、東京あたりでは、焼け跡の道を歩いて、土筆(つくし)だの、筍(たけのこ)だの、藜(あかざ)だの、食用になりそうな雑草も含めて、見つけ次第持って帰るという有様でしたから、我が家の事情も厳しいものでした。まだ小指ほどにしかならない自家農園の薩摩薯を待ちきれずに掘り上げて食べつくしてしまうという有様でした。
祖母と、まだ幼児だった妹は、縁故疎開先の父の実家に留まり、僕と一緒に学童集団疎開していた弟は、戦後も、学校再開のめどが立たないまま疎開学園に差し置かれて、存在理由を失って現地の援助なしの厳しい目に遭うという有様でした。
兄二人と僕たち食べ盛りの男兄弟三人は、交互に、妹の預けられた父の実家近くの親戚の農家に、繁農期の手伝いの名目で、週替わりで、いわば食料疎開していたのです。もともとまめで器用な特攻がえりの次兄は、農耕用の朝鮮赤牛の鼻取りまでやってのけて、「帰るな」とまで言われるほど重宝がられたのですが、都会育ちで読書の虫だった長兄は、役立たずどころか、正直のところ迷惑そのものだったようでした。

僕が行った時の食事で、一同、炉を囲む広い板の間で個々の箱膳を置いて車座で食べ始めた時に、その家のお婆(ば)やんが、僕用の箱膳を渡してくれながら、
「敏(とし)ちゃんよ、まほーねずみってなんだんべ? 前に来た兄ちゃんがが欲しがったんだが」
と訊いたのです。
「???」
一瞬「魔法(まほう)ネズミ」と解した僕がきょとんとしていると、
「それが無(ね)えと、キャベツやなんか、野菜食う事がなんねえと、お婆(ば)やんに言ったんだと」
僕と同年齢(おないどし)の従兄弟が付け足したので、僕もやっと理解しました。
「マヨネーズ!」
ずっと戦前の、まだ軽井沢に避暑に行っていた時分じゃあるまいし、僕だって、忘れかけていた言葉です。
お婆やんには、説明の仕様が・・・と、言葉に窮して、
「野菜やなんかにつけて食べるもんで、マヨネーズっていうんだけど・・・」
皆、僕の次の言葉を待ち受けて、きょとんとしています。解らないのではなくて知らないのです。
魚といえば、沼や川で獲れる雑魚(ざこ)、鮒(ふな)、鯉(こい)、雷魚(らいぎょ)、泥鰌(どじょう)、まれに鰻(うなぎ)、海のものは、たまに魚屋がリアカー引いて売りに来る、鯖(さば)か秋刀魚(さんま)の醤油煮という地元です。
結局、あとで博ちゃんに説明して、上州弁に翻訳して詳細に皆に語ってもらい、結局、牛乳から作るぐらいの事しか伝わらず、誰にも現物のイメージは浮かばずに、大笑いするまで、なんと時間がかかった事か・・・

一方、現実に、母屋から離れた独立した小屋の便所のつくりで、逆に僕が理解できないものがありました。
お婆(ば)やんはともかく、おっ母(か)やんまで、野良から帰って来がけに、小屋わきの溜にひょいと裾をまくって、後ろ向きで小用(こよう)を足したり、僕が屋内で用を足すのでしゃがみ込んだ目の前に、僕には用途が全く不明の荒縄が下がっていたり、人(じん)肥(ぴ)のもとになる屎尿(しにょう)がいかに大事にされているかを知らされたのです。夕方には、縁先で檜(ひ)葉(ば)を焚いて家の中にもうもうと煙を入れる蚊やりをして、雨戸を閉め、蚊帳も吊らずに床につくとか、カスタムギャップについて行くのに精一杯の日々だったのですが、少し続けただけで、水面にぎらつくむき出しの太陽のギラギラした反射で目の前が真っ暗になる田んぼの草取りも、
「勇(いさお)ちゃんな、根気よかったなあ、並のもんじゃなかったな」
事ごとに次兄と比べられる悔しさで、歯を食いしばって頑張ったものでした・・・

「♪盆にゃ牡丹餅(ぼたもち) 昼間にゃうどん 晩は米の飯 唐茄子汁よ」
八木節です。
太鼓の音と、歌声が、毎夕あちこちから聞こえてきました。
戦後、一年経って、村には、若い男たちが戻っていたのです。村には、わんさと若い女性が残っていました。ベビーブームの始まりの時だったのです。
各村各部落で競うように始まった八木節大会こそが、今の準高齢者群、団塊世代の親になる戦場から復員したり除隊したりして、故郷に帰ってきた若者たちの出合いの場所として、格好のイベントだったのです。
現今(いま)そんなことがあったら、確実に犯罪でしょうけれど、彼らは、平然と夜(よ)這(ば)いを敢行したのです。どこの家も、このあたりの農家は、鍵などかけては眠りませんでしたから。

旧制中学2年生だった東京っ子の僕にとっての74年前の8・15は、どん底からの回復を逞しく始めつつあった田舎での、青春の門が開きかかるカルチャーというかカスタムというか、あまりにも開きのあった東京と純農村の文化の違いで受けたショックの想い出なのでした・・・その、八木節が、コロナ蟄居の酷熱の黄昏に聞こえるのです。

コロナ感染はもはや地球全体の混乱を生み、さらに気候的、生態的危機は、重層的に人類の存在を脅かそうとしています。SDGsは、あるのかどうか、今の僕にはわかりません。
でも、あの、まったく絶望的だった昭和21年の8・15からの復活で生まれ出た団塊の世代が、人口の主軸を占めている日本の実状を思うと、まったく不条理な推測とは怖れながらも、希望が予感されるのです。
僕の耳には、日本がどん底だった昭和21年の8・15の八木節の音(ね)が、はっきりと聞こえるのですが・・・日本の団塊の世代のリーダーたちの耳には、何が聞こえているのでしょうか・・・


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