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渾斎随筆 №62 [文芸美術の森]

現代の書道 3

                歌人  会津八一

 こんな風に、一方では古い時代の假名だけを書きたがる人たちと、また一方には、中國人気取りで漢詩や漢文ばかり書きたがる人たちの對立は、日展の中にもはっきりと現はれてゐる。書道は書き方の藝術であるから、何を書いても差しつかへはないやぅなものの、現代の日本の國民が自分の藝術的活動を見せるための日展であるならば、こんな風に、いかにも餘所餘所しいものばかり書きならべてあるのはまことに不自然に思はれる。現在の日本人は日常生活のうちに讀むものも書くものも、決して假名ばかりの中古文でもなければ、漢字づくめの中國文學でもない。そして學校の教科書でも、毎日の新聞や雄志でも、そのほか一切が、假名交りの口語體で、そのほか歌でも、俳句でも、詩でも、いづれもこの假名交りで書かれる。かうした世の中に、漢字は漢字、假名は假名で、書家たちは對立してゐるために、この日展の.中では、滅多に現代の文體にめぐり合ふことが出来ない。これは何より不思議の現象であるのに、出品者も、審査員も、見物人も、こんなことは少しも不思議とも思ってゐないらしい。これは大變なことである。昔は書家などと名乗る人たちは、いくらか漢文の力はあったらしい。けれども漢文が學問の全體であった頃としては、さもあるべきことだった。けれどもまた、出来るといってもどれほどの學力でもなかつたと見える。今はそんな時代ではない。今日の書家の中でも、いくらか中國風の詩文の好きな人、いくらか出来る人もあるであらう。けれども中國人なみによく出来る人は滅多にないであらう。ましてや文微明とか、趙子昂とかいふ程度に出来る人は全くないであらう。それほどでなくとも、小説や雑文を書くにも、漢文の方がかへつて樂だといふ人も決してないであらう。それであるのに、いざ筆を取って紙に向ふといふ段になると、何でも中國人なみにやりたくなる。これはほんとに柄にもないことであるし、かうした気取の中には、すでに多分に虚偽が含まれてゐる。それを自分でも恥ぢもせぬばかりか、傍で見てゐる人たちも咎めるるけしきもない。そんな場合に書くものは佛典もいい。孔孟もいい。老荘もいい。詩も句も語もいい。しかし日本語ではいけない。すべて日本風はいけない。ことに現代の味は最もいけないものにされてゐる。けれども彿典なり、孔孟なり、ただ書くといふだけで、書く人がこれを心から信奉してゐるとか、實行してゐるといふのではさらにない。ひどいのになると、自分で書いてゐる文句を自分でよく読みこなせないのもあるらしい。しかし藝衝として書くからには、字さへ上手に書けば文句は何でもいいといふわけには行かない。その中に盛ってある思想も感情も、まづ自分のものでなければいけない。自作でないにしても、自分でほんとに感動したものでなければならない。もし日展に書道を加へられた趣意が、現代の書道を、日本の國民の生活に切つても切れぬ生きた藝術にしたいといふなら、この邊のところを、よく徹底させていただきたいものだ。
(昭和五十二年一月)

                『中央公論』第六十五年第二号昭和二十五年二月


『会津八一全集』 中央公論社


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