SSブログ

雑記帳2020-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-8-1
◆コロナのため延期されていた映画「瞽女」の試写会が有楽町のマリオンでありました。

瞽女は、三味線を奏で、語り物などを歌いながら各地を門付けして歩く盲目の女旅芸人です。かっては日本全国に存在した瞽女が、戦後の高度成長で消滅していくなかで、“最後の瞽女”と呼ばれた新潟県三条市出身の小林ハルさんの半生を描いた映画の完成試写会がありました。監督は瀧澤正治さん。今風に、ソーシャルディスタンスをとった会場では、入場前の消毒、検温も欠かしません。

IMG_9403.jpg
名称未設定 1 のコピー.jpg
「瞽女」のポスター
IMG_9402.jpg
ロビーに飾られていたお酒の銘柄も「瞽女」

生後3か月で失明したハルは2歳で父と死別。7歳で瞽女になります。
盲目の娘が親なきあと自立できるようにと願った母トメは、心を鬼にして厳しくしつけます。
象徴的なのがミズと呼ぶ針の穴に糸をとおす場面です。
大きいミズから始めて次第にミズを小さくしていく、目がみえないからできないと泣く娘にトメが言った言葉は「お前は手だけで糸をとおそうとしている。目がみえなくても、口も舌も指もみんな、体全体が目なんだよ。」

冬には「かんごえ」と呼ばれる厳しい修行もあります。降りしきる雪の中、薄い着物一枚に足袋も履かず、川に向かって声を出すのです。一度喉をつぶしてのちに出るようになった声は、90歳をこえてもなお艶のあるハルさんの瞽女歌のもとになったのでした。

今なら虐待とかたづけられそうな、そうしたしつけや修行を強いた母は子供には自分をいじめる鬼としか映らず、トメの臨終にハルは涙一滴こぼすことはありませんでした。
後年、親方となったハルが幼い弟子を育て、糸通しを教えるとき、できないと泣いて反抗する弟子にかっての自分が重なって、はじめて母親の深い愛を知るのです。

瞽女の一年の大半は巡業の旅です。
視力のある手引きを先頭に、親方と姉弟子、弟子が、前を歩く人の荷に手を触れて動きを知り、右手に持った杖で足元を確認しながら旅をして、瞽女を待ち望む山村へき地の村人に瞽女唄を届けます。
旅は、瞽女自身は見ることのない、美しい越後の風景とともに流れました。

娯楽の少ない村人にとって、瞽女宿に集まって瞽女唄を聴くことは楽しい年中行事でした。
同時に、瞽女は貴重な外の情報を村にもたらすものでもありました。
瞽女さと呼んで瞽女を迎える村人はみなやさしく、差別はありませんでした。

過酷な瞽女人生の中で、ハルが縁した親方は二人いました。
意地悪なフジ親方からは理不尽な仕打ちを受けながらも決してうらむことなく、瞽女として生き抜く力を学びます。
そして、やさしいサワ親方からは瞽女の心を学ぶのです。ハルさんの言葉です。
「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行・・・」

サワ親方は小林綾子さんが演じていました。ハルさんの言う、祭りのように楽しい旅の印象的なシーンがあります。
花の咲き乱れる野にいても、目の見えない瞽女は花の色がわかりません。
サワ親方はいうのです。
「色は見えずとも、臭いをかぎ、手で触り、風に揺れる音と聴いて、体全体で花を見るんだよ。」
花畑の中で3人の瞽女が楽器を打ち鳴らし踊る様はさながら夢のように美しい場面でした。

サワ親方が語った言葉はほかにもあります。
「人は誰でも神様から与えられた授きものがある。その授きもので他人(ひと)を喜ばせることができるんだよ。」
親方亡き後、、自身が親方となったハルの瞽女唄に村人がききほれるとき、ハルは心の底から思うのです。「かみさま、私にこんな授きものをくださって、ありがとうございます。うれしい・・」

映画はここでおわっていますが、その後もハルさんの人生は決して平坦ではなく、養子縁組した婿からの搾取や実家との縁切りなど、苦労の絶えることはありませんでした。それは終の棲家となる老人ホームに入所するまでつづきました。
それらの過酷な運命を逍遥としてうけいれ、廃業してホームに入ったのち1978年に無形文化財となった瞽女唄の保持者と認定され、1979年には黄綬褒章もうけています。
ホームには高田瞽女の杉本キクエさんも入所しており(ハルさんは長岡瞽女)、奇しくも最後の瞽女たちが集った形です。晩年になってようやく穏やかなくらしを手にいれることができたのでした。

終演後、監督と出演者の舞台挨拶がありました。
主人公・ハルの成人期を演じたのは吉本実憂さん。彼女は約1ヶ月半の三味線や歌の練習に励んだということです。「小学生の時に4ヶ月くらい遊びで触ったことがある程度で、本格的に習ったのは初めて。指の皮がたくさんめくれましたし、声も喉が常に潰れていた」と、苦労しながらも、映画の中では見事な音と声をきかせてくれました。

舞台挨拶にはそのほか、少女時代の川北のんちゃん、母トメの中島ひろ子さん、小林彩子さん、歌手の小林幸子さんたちが出席していました

小林幸子さんは赤ん坊のハルの運命を左右した占い師の役でした。赤ん坊のハルを見て、
「この子は長生きするよ。人に喜びをもたらす子になる。瞽女にしなさい。」
ハルさんと同じ新潟出身の彼女は、幼少期に瞽女たちの三味線芸に触れていたそうです。「祖父母が瞽女さまが家に来るのが楽しみにしていた。90歳になっても素晴らしい声を保っていたハルさんのように、私も90歳まで歌っていたい」と語っていました。

映画「瞽女」には瀧澤監督の17年の思いがこもっています。
「映画を監督したいと思い立ったのは 2003年1月のことでした。 テレビ番組で初めて瞽女・小林ハルさんの 存在を知ったのがきっかけです。完成まで17年かかったが、17年は苦しい時間ではなく、いい時間だった。いろんな人に出会いいろんなことを学んだ。一人ではたどりつけなかったと思います。ぜひ多くの人にみてもらいたい。」

瞽女は新潟だけでなく、長野、福島、山形、千葉や福岡にいたるまで、全国にいました。
彼女たちは村々に娯楽をとどけるとともに、閉ざされた社会に外からの情報をもたらす役割も果たしていました。テレビの普及ととともに瞽女の文化は次第に消えていきました。

小林ハルさんは104歳で死去。瞽女はいなくなりましたが、彼女に教えを乞うた人達によって今も瞽女唄は歌い継がれています。

ハルさんの生涯はWikipediaに詳しくかかれています。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/小林ハル
紹介されるハルさんの言葉はどれも胸にひびくものばかりです。
映画は8月8日からハルさんの故郷、新潟で先行公開されます。

目が見えないために一生だれかの世話にならなければならない、そのためには人に迷惑をかけてはならないと思う母親は、目の見える人以上の身なりや生活のしまつを娘に厳しくしつけました。母親の思いはそのままハルさんにうけつがれました。
福祉の環境も制度も無かった時代に、それは必要な厳しさだったのでしょう。
以前、瞽女のドキュメンタリーを見る機会がありました。盲目の彼女たちの凛とした生き方に圧倒されたことを思い出します。共同して自立した生活を営む彼女たちの日常の、礼後作法のすがすがしさとともに、見事に片付いた部屋にはちりひとつ、ほこりひとつないのでした。

数年前、訪れた新潟県頚城郡の寒村、少子化で廃校の目立つ村に、都会からやってきた若者たちが介護サービスを展開している姿が忘れられません。
瞽女を受け入れることで外部に開かれていた土壌が、高齢化と過疎の村に若者を呼び込むことにつながっているのではないでしょうか。

◆7月15日、立川市富士見町に、さとうそのこさんのギャラリーがオープンしました。

人形作家のさとうそのこさんが亡くなったのは昨年秋のことです。友人だった音楽プロデューサーのしおみえりこさん夫妻が、自宅のガレージ跡を提供し、そのこさんの作品を集めたギャラリーが誕生しました。その名も「ガレージギャラリー・カメレオン/そのこメモリアル」。青梅線西立川駅の近くにあります。

IMG_9392 のコピー.jpg

立川市の元米軍ハウスに住み、そこをアトリエにして、ご主人の銅板造形作家、赤川ボンズさんと創作活動を続けていました。『知の木々舎』には、みそのたかしさんとの共著、絵本『かみさまからのおくりもの』を紹介しました。戦後全国の基地の街にあった「ハウス」が消えて行く中で、立川に残っている「ハウス」を取材におとずれたのがご縁でした。

オープンを知って訪ねあてた8畳ほどの小さなギャラリーは、壁いっぱいにそのこさんの作品が展示されていました。思わず「わあ、色があふれてる」と言いながら、ご主人の赤川さんの「(そのこさんは)色が暖かい」という言葉を思いだしていました。
小学校の音楽教科書の表紙もかざったことのある「そのこ人形」は、ふっくらしたおなかに、ゆらゆら揺れるような優しい感じと色が人気でした。

訪ねた日、ギャラリーは数人の中学生たちが先客でした。密にならないよう、入れ替わりながら、赤川さんとおしゃべりを楽しんでいるようでした。コロナのためにかってのような人とのつながりがうすれると心配されていますが、こんなところにもたまり場はできると思わされた場面でした。

IMG_9398 のコピー.jpg
IMG_9395 のコピー.jpg

IMG_9400 のコピー.jpg
IMG_9391 のコピー.jpg


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。