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バルタンの呟き №78 [雑木林の四季]

    「コロナの現在こそ大東亜共栄圏を!」

         映画監督  飯島敏宏

 8月と言えば、バカンス、休暇真っ盛り、東洋一の、いや、安倍総理好みの言葉で“世界に輝く東京”は、まさしくvacant、休暇キャンペーン(Go to travel!)で空っぽなはず、なのに、僕はいま、「特に、ご高齢の方々は、コロナ感染を避けて、くれぐれも、不要不急の外出は、控えて頂きたい」という小池東京都知事の要請ばかりでなく、「絶対ダメよ!」「感染したらお終いだからね!」子供や孫たちから、そしてママ(カミさんのことです)にも釘を刺されて、ウチにじっとひきこもっているのです。
しかも、ならばせめて、狭いながらも一応築山まがいの植え込みなどもある庭の手入れでも、と思い立っても、観測史上初めてに近づきつつある明けそびれた梅雨とかで、日本列島の各地の河川を反乱させて甚大な被害を与えながら、一向に途切れようとせず降り続ける雨が、せっかく湧きかかった僕のやる気にも、容赦なく水を差して、やるせない深い淵にまで消沈させてくれるのです。
緊急事態宣言の解除が正しかったのかどうかは、各専門家の先生方でも評価が分かれているままにして、各都市の感染者数は増え続けている現実を知らされる限り、充分に高齢となった僕は、ただ、粛々と蟄居し続けるほかはありません。
8月と言えば、子供たちにとっては、指折り数えて待ち遠しい、夏休み真っ盛り、の筈ですが、コロナ騒ぎの今年は、狼狽え続けるお上の朝令暮改のお達しの禍いで、いつ始まっていつ終わるのか、さっぱり解らずの学校で、しかも、Stay home!で、画面の中の先生にも見張られて、楽しい給食にもありつけずに、レシピが種切れで、レトルトものが増えてきたママの料理を、パパまで一緒に、なんとなくみんな不機嫌に沈黙を保って・・・なんでしょうけれどね、この所は、感染を怖れて、各核家族とも、往き来が皆無の鎖国状態で、解りませんが・・・まるきり思考停止としか思えない政府が、まだあのアベノマスクを、大金掛けて、恐らく現場では通用しない医療現場にと注文済みの8千万枚も配るとか、いつ攻撃してくるか想定できない敵方兵器を、敵地の敷地内で専守防衛する、という奇策を推進するとか、理解しがたいオリンピック方策とかを報じるテレビ画面を、漫然と見ながら、いつの間にか僕は・・・心地よい睡魔と共に夢の中を漂い続けて・・・

ああ!僕たちが子供だった頃の、あの8月よ!指折り数えて待ちに待った夏休み真っ盛りの、スイカと風鈴と団扇と浴衣と、隣のおじチャンのステテコと、おばチャンのアッパッパー姿!夜店の金魚すくい!僕たちは、プール遊びや海水浴で、もう、背中は日に焼けて、裸になると、ランニングシャツの跡がくっきりと目立って、皮がむけ始めている頃です。やがて、夏休みも後半になるので、小学校低学年の頃は、まじめな生徒は宿題をやり終えてのびのびと、ふつうの僕らは、まだ、あと何日あるから大丈夫!と胸算用して、朝のうちだけは我慢してちょこちょこっと勉強したふり、冷ソーメンのお昼もそこそこに「おもて」に飛び出して、夕暮れまで、トンボ釣りやら、メンコ、かくれ鬼、何処(どこ)何処行き、ちょっと疚(やま)疚しい裏路地の賭け事ベーゴマ、雨の日ならば、決めのお小遣い三銭握って駄菓子屋の小上がりに陣取り、二銭かそこらで、パンかつだのお好み焼き、固形汁粉のお相撲さんを当てる籤引いて、すってんてん。紙芝居は後ろの方から無料(ただ)無料見(み)見して、やや短くなった日の名残りで、まだ明るい空に宵の明星がピカと浮かぶと、まるで頃合いを測ったように、「ご飯だよー」と、夕飯で連れ帰りにくるお祖母(ばあ)祖母さんに容赦なく腕を取られて、しかたなく、
「あばよ!またあした・・・」
やんちゃ同志の喧嘩の最中だったら、
「おぼえてろっ!」
捨て台詞を投げつけて、でも、日めくりカレンダー一枚めくれば、また、呼びに来るにきまってらあと思いつつ・・・
夏は、なんといっても夕方。縁台に腰かけて、口から種を遠くへ飛ばしっこしながら食べたスイカ、湯上りの線香花火、逃げ回る僕を、くるくると追い掛け回すねずみ花火、よけた拍子に足を踏んだ踏まないで始まるすぐ上の兄貴との兄弟げんか。とどめの一発食らって、
「なんだいこの赤痢菌!」
「なんだと!」
そうだ、戦前のある年に、疫痢赤痢が流行(はや)流行ったことがありましたね。随分衛生問題がひっ迫して、手洗い、うがいの徹底がきびしく叫ばれたことがありました。

やがて、尋常小学校の看板が国民学校と書き改められ、ガキとよばれた僕らが少国民諸君に、キリスト教会日曜学校、YMCAプール遊びが、海洋少年団での重いオールのボート漕ぎに、水筒とお弁当とお菓子のルックサックの心弾んだ遠足が、飲み水禁止の行軍に、将棋もカルタも、ちっとも面白くもない軍人将棋、軍人かるたに、という具合で、遊びがすべて錬成だの訓練に変わって、母親たちもモンペ割烹着の愛国婦人会、肺疾患で辛くも軍の徴用を逃れた父親は、国民服のゲートル巻きと、何もかも「非常時」一色に塗り固めた団体行動になり、夏には白い覆いをかけていた学帽とランドセルも、いつのまにか戦闘帽に雑(ざつ)雑嚢(のう)嚢と巻き脚(キャ)脚絆(ハン)絆という戦時色に彩られて・・・
やがて、ここはお国を何百里の遠い遠い彼方で、兵隊さんが勇ましくラッパ吹いて戦っていた戦争が、あれよあれよの間にどんどん近づいてきて、チョコレートだキャラメルだグリコだチューインガムだ、なんてものは、いつの間にか、お目にかかることもなくなって、
「おかわり!」
「あら、偉いわねえ、五膳目のお代りよ」
なんてほめられた茶碗のやり取りだったのが、ふわっと軽く盛り切り一杯限りの丼飯に変わり(注。ウチのおふくろは、二つ違いの食べ盛りの男兄弟四人の丼に、見比べてどれを選ぼうにも、一粒と違いが無いほどの均等盛り付け名人だったのです)、白米が七分搗き、麦,芋、まじり飯、大根葉入りおかゆ、すいとん、どんどん焼きへと、代用食で空き腹を満たす家族には、かつてお膳を賑わした会話もなく、灯火管制で暗い明かりの下で、がつがつとお腹に収めるだけとなって、遂には、兄たち二人は学徒動員で、海軍省と兵器工場に動員され、末の妹とお祖母さんは、父方の田舎へ、少国民の僕と弟は、本土決戦帝都死守の少年戦士だったはずが、更に戦局が緊迫してからは、邪魔、ということで一転、学校ごと地方に追い出された挙句の果てに、中学受験志望者は受験のために空襲最っ最中の東京に戻って、元の木阿弥、結局米軍巨大爆撃機B29から降り注ぐ焼夷弾の熱い雨に追い回された挙句の果てに、はしなくも迎えた8月15日終戦の日、なのでした。
日清、日露戦争の偶発的倖とも見える戦勝を過信した貧国日本が、富国強兵の道を探って、軍国主義政策を取り、欧米列強の植民地政策を真似て軍事力を以って東亜の盟主となる「大東亜共栄圏」構想を推し進めるための戦争、と位置付けたのが、「大東亜戦争」で、共栄の美名に隠れて、植民地の人的、物質的資源を確保するのが真意の戦争だったのです。
あの日、昭和20年8月15日。恐れ多くもかしこくも、神としての最後の肉声で、天皇陛下が、全面降伏を求める連合軍のポツダム宣言を受諾、「大東亜共栄圏確立のための聖戦」の終わりを告げたのです。そして、連合軍との間に、日本の国体と天皇制の保持の交渉を探っている間に、さらに樺太、千島列島にソ連軍の侵入を許した後の9月2日、ようやく、東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ号上に、幣原喜重郎を代表として送り、アメリカ、イギリスをはじめとした世界45の連合国との無条件降伏文書に署名した日をもって、正真正銘の敗戦国となったのです。

いま、僕の郷土は、想い出の中にしか、ありません。同じ地には、確かに真新しいビルが立ち並んで、むしろ、空襲で焼き払われる以前より美しい街並になっているのです。でも、彼の地には、僕の過ごしたあの町は、ありません。木と紙とわずかなコンクリートで出来た首都東京にあった僕たちの街は、いまは、記憶の中にしかないのです。1945年、今から75年前の、3月10日、わずか3時間足らずの、米軍巨大爆撃機B29延300機以上が、外周から東京都心を囲んで絨毯を敷き詰めるように充分に油を含んだ焼夷弾をばらまいて、すべて、焼き尽くしてしまったのです。木と紙とわずかなコンクリートの街の焼き払われた跡には、焦熱で、殆ど炭化した30万の人々と、喪われた街に舞い戻った人々の、呆然とした無感情な姿があったのです。

窓外に目をやると、なんと、いつの間にか、雨が上がって、日の名残りでうっすらと紅をさしたような小さな雲間を、最近航路になったジェット機が、静かな音で横切って行きます。
「ごはんですよ!」
そろそろママ(カミさんのことです)の声が飛んできそうです。
「午後5時半現在、東京都の新型コロナ感染者数は・・・」
テレビの音が聞こえてきます。声を掛けなくとも、テレビニュースが聞こえれば、
「ごはんですよ!」
と、東洋の瞳に笑みを浮かべたママの顔なのです。
ああ、確実に、僕はまた、不要不急の外出を差し控えなければならない、高齢者の現実に引き戻されて・・・思わず背筋を伸ばした姿勢を取る僕がいるのです。
食卓の上には、一枚のはがき、すわととり上げかねない鳥居上げ警視庁からの運転免許更新手続き通知書です。コロナ騒ぎで遅れに遅れて来たものの、程遠くない誕生日までには、返上するかしないかの決意をしなければいけないのです。
「新型コロナウイルスの決着が、短絡的なリーダーの迷走で、よもやの戦争を生み出しゃしないだろうな」
僕はつぶやき続けます。
「今こそ必要なのは、色々軋みのある矛と盾の日米同盟の堅持もさることながら、地球上の全世界が喫緊の危機にある現在、日本の採る最善の道は、恒久の平和の為に、まず、極東の平和、本当の大東亜共栄の道を探り当て、アジア各国をそこへリードするのが、最善の策じゃないかなあ、しがらみのない若い人たちに期待したいよ」
呟きかけると、ママが言いました。
「そのころ、パパは、何処にいるつもりなの?」
さあて何処に・・・


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