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コーセーだから №65 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」26

             (株)コーセーOB  北柄 保

仏ロレアル社と提携
年200%の伸び率達成

欧米へ視察旅行

 小林社長は昭和34年(1959年)10月、化粧品業界の社長連と欧米旅行に出かけた。
 「なんせ業界で20人集まって欧米を回ったのははじめてのことでしょう。各国の工業界から歓迎されましてね、いろいろ見た中でいちばん印象に残ったのは、パリに美人がいなかったことかな」
 いや小林社長は世界の美人を捜して欧米をまわったわけじゃない。持ち前のこり性からか、後のコーセーにとってたいへんなおみやげを持って帰ってきた。
 シカゴについた時のことだ。小林社長ら一行は世界的なヘアダイのメーカーのヘレンカーチス社から「ぜひ来てくれ」と招待をうけた。早速、同行の当時ヘレンカーチス社と関係のあったアリミノ化学の田尾社長といっしょにヘレンカーチス社に出かけた。そこで小林社長は将来頭髪分野へ進出するヒントを得たのである--
 「私も50年間、化粧品を経験しましたが、頭の方には気がつかなかった。頭も顔なんだから、これはわれわれも考えなければならないと思いましたね」
 この小林社長の頭への関心が、後にコーセーがロレアル社と提携するキッカケになった。
 欧米旅行から帰った小林社長は、美容界のいろいろな先生に聞いてみたところロレアル社という会社はすばらしいという評判であった。そこで手紙を出したところ、かんじんな手紙でロレアル社がコーセーを他の化粧品会社とカンちがいしたり、いままでコーセーがフランスの会社と提携したことがないのに「ある」と書いてあったりで、提携までにながい期間がかかった。
 半年後のこと、あるパーティにロレアル社の代表がきているというのですぐにコーセーの社員がかけつけたが、先方は、
 「小林コーセーなんて知らない」という。コーセーとロレアルは、恋愛期間がながくてなかなか結婚にふみ切れない男女のようだった。
 とある日、ロレアル社の取締役が小林コーセーの本社にやってきてやっと提携の話が本決まりになった。早速、小林社長は小林禮次郎常務と長女の伊津子さんを同道してパリに出むき、旅行のおみやげ話から4年ぶりの昭和38年(1963年)5月に円ベースで技術提携が成立した。ロレアル社の条件は、ロレアルのヘアダイの製造販売権をコーセーに委託するということで東南アジア市場への委託製造販売はロレアル日本支社と同じ内容のもの。後に日本支社は合併してコスメフランスという会社に変わったが……。
 「ちょうど、ロレアルと提携した時が、ヘレナルビンシュタインとかレブロンが円ベースで契約したころで、時期が良かったのですね。これがちょっと遅れると昭和39年(1964年)の不況がくるのでまずかったですね」
 いまロレアルといえば、ヘアダイでは世界第一位の会社。コーセーのロレアル製品は年200%の伸び率だというから、たいへんなドル箱である。毎年9月になるとコーセーでは全国から60人の美容師をつのり、フランスのロレアル本社に研修旅行の斡旋をしている。
 ロレアル社との提携は、コーセーの狭山工場がこれから建設に入るときだったので、化粧品工場にロレアル製造工場が併設された。日本のロレアルの伸びが世界第一位でびっくりしているそうだ。
 「このロレアル社との提携は、コーセーの第三期といわれる貿易自由化の国際競争時代をむかえるにつけて、大きなプラスになりましたね。いわば他社より一足先に国際的感覚を社内に植えつけることができたわけですから」
 コーセー化粧品は、積年のロレアル社との提携に成功し、約10万6000平方メートルの狭山工場も昭和39年(1964年)には完成に一歩近づいたが、業界ではコーナー制という専門小売店政策が打ち出され、外からは化粧品の自由化が話題にのぼりはじめた。そのころ、成長一途のコーセーに『新しい波』がおしよせていた。
                    (日本工業新聞 昭和44年11月8日号)

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1962年当時のロレアル本社(フランス)
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ロレアル社の工場を視察する小林孝三郎(1962年)
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1962年当時のロレアル社の工場内部(仕上げライン)
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技術提携スタート翌年、ロレアル社の首脳がコーセーの視察に来日



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