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多摩のむかし道と伝説の旅 №44 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                  -伊奈の石工が江戸と往還した伊奈道を行く- 1

                 原田環爾

 五日市東部の武蔵増戸の辺りは伊奈と呼ばれる。その由来は五日市の東縁の秋川北岸の横沢入から南岸の高尾へかけての南北に連なる山並一帯は、古くから良質の砂岩を産出したことから、平安時代末の仁平2年(1152)、信州信濃伊那谷から12名の石工が、その石材を求めて現在の武蔵増戸辺りにやって来て伊奈村を開いたことによると伝えられる。横沢入の天竺山には今もかつての石切場の跡が生々しく残されている。伊那石と称された石材は柔らかくて加工し易いことから、古くから地蔵、宝篋印塔、板碑、石臼等に用いられてきた。特に石臼の需要は高く、重宝されてこんな歌さえ残されている。
      「伊那は伊那臼 新町小麦 挽けば挽くほど 粉が出る
        臼の廻るように 仕事が廻りゃ 蔵も建ちます 七戸前」
 また伊奈には鎌倉道が通ることから、中世以来宿場として発展し、戦国末期には市が立って賑わった。天正18年(1590)に徳川家康が江戸に入府すると、江戸城を修築するため、伊奈の石工達はその腕を買われて徴用され、江戸と伊奈の間を往還した。その往還路が江戸では伊奈道と呼ばれた。
 伊奈道の道順は、伊奈宿を出ると山田、引田、渕上と、ほぼ現在の五日市街道を東へ進み、渕上からは睦橋通りに入る。代継、油平、牛沼、雨間、野辺と進み、小川を過ぎると小川の渡し(現睦橋付近)で多摩川を渡河して拝島 に入った。拝島からは二通りの道筋があった。一つは現奥多摩街道に沿う道で、田中、中神、築地を経て立川の柴崎村に入り、そこから甲州道に入る道筋であり、今一つは拝島から、現在の玉川上水に近い道を辿って砂川村の天王橋へ至り、現五日市街道に入る道筋と考えられている。残念なことにかつての伊奈道は現在では大半が大きな車道となってしまっている。ただ一部では車道から分岐した里道となってひっそり残されており、沿道には寺社もあって見所は多い。

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 ところで現在の地図には伊奈道と称する名称はない。そのわけは江戸時代に入ると、五日市宿で市が開かれ、薪炭取引で伊奈宿と主導権争いとなった。結果は五日市宿が生産地の檜原村に地理的に近いという優位な位置を占めていたことから、享保20年(1735)五日市宿が幕府から炭運上の徴収委託を受けた。これにより生産者を支配した五日市宿が急成長をとげ、一方伊奈宿は衰退した。それに伴い伊奈道はいつしか五日市道と呼ばれるようになり、伊奈道の名は人々の記憶から忘れ去れていった。

 本稿では前半に石工の故郷伊奈宿から横沢入の石切場跡を巡ることとし、後半に伊奈宿から伊奈道を辿って拝島へ至る道筋の実踏経験を紹介する。出発はいずれもJR武蔵五日市線の武蔵増戸駅とする。
 まずは伊奈宿から石工の里道を辿り石切場のある横沢入の天竺山までを実踏してみよう。

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44-3.jpg 武蔵増戸駅を出て駅前を右へとると南北に走る車道に出る。一見何でもない車道だが実は旧鎌倉街道山ノ道の道筋だ。中世の頃東国の武士達が鎌倉との往還に踏み固めた道筋である。左折して鎌倉道を南へ向かうと伊奈に入る。五日市街道との交差点「山田」の一本手前の狭い街路と交差する辻がある。この何の変哲もない狭い街路こそかつての伊奈宿の宿場通りだ。ちなみに伊奈宿は西から上宿と新宿からなる延長約1kmの宿場で。上宿が古く、それが東へ発展する形で新宿が出来た。新宿の中ほどには「鍵の手道」があり、これが宿場の入口であったようだ。1と6の日に市が立って賑わったという。(つづく)


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