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日本の原風景を読む №6 [文化としての「環境日本学」]

序 まほろばの里で イザベラバードの奥州路 3 

イザベラ・バード感動の度―米沢平野 2

    早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

厳しい自然を生き叛く結の丈化

 孤立を保ったギリシャの楽園アルカディアとは異なり、米沢平野は戦国時代に左遷された米沢藩の命運を担った藩主、上杉鷹山の必死の国興の場、明治維新を迎えた東北列藩同盟の敗残の舞台だった。バードが訪れた当時、その強烈な開発政策で時には住民の反感をかった明治政府の初代県令、三島通庸の道路づくりや産業興しなど激動の近代化の渦中にあった。現在の川西町から二つの川を渡ってバードは高畠の辺りにさしかった。七月中旬は養蚕の盛りで、村人は蚕の面倒見に忙殺されていたであろう。
 桑の葉を一枚一枚採り、蚕の状態によっては、葉の芯を除いて包丁で葉をみじん切りにして一日六回与えなくてはならない。蚕は四回眠り脱皮し続ける。桑の葉を食べなくなったらまゆをつくる藁細工に糸を吐いてサナギになる。それを乾燥処理する。とりわけ女性たちは大忙しで、養蚕集落には米沢や福島から手伝いが入っていた。バードは女性たちのそのような姿を生き生きと描いている。
 旧米沢最上街道にさしかかると、それまでの幅一・二メートルの道路はいきなり道幅七・五メートルに。しかも両側に側溝があり、電信柱が続いている。降ってわいたような近代化途上の世界に出会う。
 行く先々のバードにあてがわれた部屋は、しばしば隅々まで蚕に占領されていた。当時の国際市場へ、日本の唯一の輸出産業が養蚕だった。ブナの森林をまとった連山は、頂にことごとく水神を祭り、豪雪の山岳に発する水は田をうるおし、水田稲作社会を支えている。
 バードの旅から一四〇年を経た今もアルカディア、置賜盆地はまごうことなく「日本の花園の一つ」であり続けている。
 厳しい自然に対してたゆまぬ努力を重ね、はたらきかけてきた暮らしの知恵が、アルカディアとなってこの土地に表現されていた。飯豊町萩生神社恒例の「荒獅子まつり」(八月十六~十七日)では、村相撲を勝ち抜いた大関が神の権化荒獅子に挑む。
 「時に民を苦しめた神や殿様に村人が戦いを挑む。立ち向かう。何度やられても立ち向かい、立ち直る。東北人の魂がそこに生き続けています」(後藤寺平飯豊町長)。
 東北のアルカディア風景は人々のなお語り尽くせぬ思いと厳しい情念とを秘め、私たちに日本人の魂の在りかを語りかける。
 「今もその風景は変わっていません。ただしバードが讃えた理想の楽園、楽土とは成り立ちが、歴史が異なります。水に不安がある土地の散居集落では、水源近くに本家を、下流に分家を配し、家ごとに用水堀をめぐらせ、水尻に残飯を流し鯉を飼いました。飢饉に備え、ウコギの生垣は葉を食用に、強風と吹雪に備え屋敷の西側にバンノキ、シオジの林を、さまざまな果樹を南に配したのです」 (後藤町長)。
 「勤勉であること、そして食べ物を分かち合わないとこの土地では生きていけなかったのです。農業を大切にして厳しい自然界で助け合い、生き抜いていく結(ゆい・共同農作業)のようなルールがしっかり根付いてきました。限られた田畑を『鋤でなく絵筆で』ていねいに耕さざるを得なかったのです。自然と共に生きる生活の流儀です。」 (原田俊二川西町長)。

バードを感動させた奥ゆかしさは今も

 横浜出身の通訳兼ガイド伊藤鶴吉を伴ってはいたが、単独行のバードは行く先々で見物人にとり囲まれ、宿の部屋の障子、ふすまにも好奇の眼が連なった。
 しかし鍛えられた旅行作家バードは、むしろ人々の礼儀正しさと親切心、そしてなによりも心の奥ゆかしさにうたれる。
 手の子(てのこ)(飯豊町)の馬逓所で、女たちは暑がるバードをうちわで一時間もあおぎ続け、謝礼のお金を断った。「そればかりか彼らは菓子を一袋包み、また馬逓職員はうちわに自分の名を書いて、私に受けとれというのです」。バードはイギリスのピンを手渡し、「私は日本のことを覚えている限り、あなた方のことを忘れません」とお礼を述べた(『イザベラ・バードの日本紀行』)。
 「よぐござったなし(ようこそいらっしゃいました)」。優しく、懐かしい方言が今日も「アルカディア街道」に飛び交う。
 飯豊町助役をつとめた菊池直さんが著した『置賜弁方言辞典』は上下二巻、その補筆版が五〇〇ページを超す。英語に巧みなモダンボーイ通訳伊藤だったが、果たして置賜の方言を正しく、聞き取ることが出来たのか、バードへの微笑ましい追憶である。

 

『日本の原風景を読む―危機の時代に』 藤原書店

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