SSブログ

渾斎随筆 №61 [文芸美術の森]

現代の書道 2

                 歌人  会津八一

 實は私は、今日に始まったわけでなく、事燮や戦車よりもずつと前々から、日本の書道界には、まことに思ほしくない一つの現象を見つけて、そのことについて、ある一二の會合で意見を述べたことがある。それは、いつの頃からか、全く別々の趣味や、態度や、理想を持つ二種類の書家があって、たがひに別々の仕事をして居るといふことだ。そしてその二種類の書家たちは、この不一致にはほとんど気がつかぬやうに、表面的にはまるで和気藹々の姿である。その一方は中国の書道に全面的に、徹底的に、紆依傾倒する人たちで、この人たちにあっては、事いやしくも書道に関する限り、いつの時代の誰が書いたものでも、中国人の手に出たものでさへあれば、何でも尊敬してかかる。そして鑑賞するにしても、批評するにしても、自分自身の好みや気持は、深く包み隠しておいて、あちらの人たちの鑑賞や批評の言葉を、しかも出来るだけたくさん拾ひ集めて、事あるごとにこれを羅列して、その用意の行き届いて多いのが造詣の深い、偉い人とされてゐる。日本で出来た書造史とか、書論とか、金石談とかいふものはたいていこれだ。もし勉強中の書生などの心がけとしてならば、これは大いに買ってやらなければならぬところであるし、國民全體としても、日頃慣れて居ない異国の刺戟を、物ぎらひをせずに、一がいに打棄らないでしばらく虚心に受け入れて居るうちに、趣味や理念の上に、いくらかづつ燮化も進歩も起るといふものだが、同じ亜細亜人でも、たがひに融通のつかぬところはもとよりある。朝鮮は日本よりももつと中國に近く、陸つづきの半島であるが、達ふところはやはり達ふ。同じ中國でも、東西とか南北とかで、何もかも違ってゐるはずだ。われわれ異國人として、中國人に學ぶとしても、性根まで中國人になりおほせられるものではない。そこでいい加減にしないと、ややともすると空っぽの物眞似か口眞似になってしまふ。性根から出て来る好き嫌ひなどを免すといふと、何かわがままを奨励でもしてゐるやうに見えるかも知れないが、結局は自分の性根から湧き出るものがなくては、製作も批評も、その價値がないといふことを確認して貰ひたい。もし日本の現在の書家たちが、遠い昔の、しかも異國人の筆法とか筆意とかいふものの、物眞似ばかりにうき身をやつして、自國の、現代の、自分のものが現はれてをらず、またそんなものを現はすなどといふことを、夢にも思ってゐないならば、文展、帝展の昔から藝術としての待遇を受けなかったことも、相當の理由があったといはなければならない。これは今にして痛切に思ひ合はされるべきことであらう。 けれども日本の今日の書道界で、こんな風に異國のものにうつつを抜かした人たちに對峙するのは、日本は日本のものでも、主として草假名をばかり尊重する人たちである。いふまでもなく假名は中國文字の草體から派生して、日本人の手で発達を遂げたものである。すなはち草書を引きのばしたり、押しつぶしたり、或は取り崩したりして、一體としてまとめ上げたものであり、それだけに充分に日本趣味のものであり、また書道として、相當の程度にまで出来上ってゐるから、われわれ日本人としてこれを珍重するのは自然であるが、今日の書家たちの間に、特別に大切にされるのは、平假名の中でも特に「草假名」といふ一體で、これは平安朝から鎌倉時代へかけて、いはば遠い昔に完成されたものであるのに、今日の書家たちは、この中から更に立派なものを展開させて行くといふのでなく、いつの末世になっても、すでに過ぎ去った遠い昔の俤に取り縋って、これを守って行かうとするのであるらしい。この點は見逃がすことは出来ない。ことにその草假名は、その頃の宮廷人、すなはち公卿とか官女とかいふ、およそ今日の日本人とは、生活も、感覚も、気分も、かけ離れた人たちの手で出来たものであるから、今日のわれわれが、歴史をさかのぼって、勝手のまるで達ふ時代の、特殊の産物ともいふべきものを、われわれの文字にしたり、その中からまた、われわれの持つべき藝術としての書道を見出さなければならぬといふのは、随分不自然な考へ方といはねばならない。中国の文学や美術は、遠く奈良時代以前から、絶えずこちらへ渡って来たもので、その結果、さきにもいつたやうに、草假名の発生にもなったが、しかしまた、その後も、鎌倉、室町、江戸と、中國の影響はいつも豊かに及んで来て、その時代時代に、いろいろの効果をもたらした。それがさらに數歩を進めて、欧米文化の侵入とともに、明治以後の文化を醸し上げて今日に至ったのであるから、それらの収穫には一切目をやらずに、草假名の昔へばかり、何のために一と飛に戻らなければならないのか、私には全くわからない。鎌倉時代までに草假名はある程度に完成されたとしても、その後にはその後の假名があった。今日のわれわれももちろん假名は用ゐて行かなければならないが、鎌倉以前のものでなければならぬわけはない。今日は今日の假名を見出して、これを實用にもし、その中から藝術をも見出して行くべきである。たしか尾上八郎君のご説かと記憶するが、平安時代の歌詠みの歌は、その時代の假名で書くと、實によく調和するといつたやうなことがあった。なるほどごもっとものことだ。しかしこの説を延長すれば、現代の短歌などを、うかうかと遠い昔の書體などで書いたなら、なかなかしっくりするものでないといふことにもなるであらう。實は先月地方のある書道雑誌に、一首の歌が、例の假名書になってゐるのを、私は何遍かよみ直してゐるうちに、それはある年高野山の明王院に泊って、大雪に遇って、私自身が詠んだ歌であることが、やうやうのことでわかって、一人でしばらく苦笑してゐた。これは一つの實證にもなるであらう。今日の書家の中でも、ある一人の特別の趣味としては、いつの時代の誰の書風を慕って、そこに自分としての藝術を見出して行かうとも、それはその人の自由に任かせらるべきであらう。けれども今日の實状から見ると、あらゆる書家は、遠い昔のある一時代の書風でなければ、假名を書くことを許されてゐないのかと思はせるばかりの姿である。(昭和二十五年一月)

                『中央公論』第六十五年第二号昭和二十五年二月


『会津八一全集』 中央公論社

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。