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バルタンの呟き №77 [雑木林の四季]

                「あの日」

             映画監督  飯島敏宏

 また、あの日を迎えます。8月15日。終戦記念の日です。
 昭和20年(西暦1945)のあの日、あやうくこの国が壊滅する危機にまで追い込まれたあの「大東亜戦争」が終わった日から、75年の月日が経ちました。「いや、終戦記念日なんかじゃあないよ。敗戦記念日だ!」と仰言る方もいらっしゃいますが、9月2日に幣原喜重郎総理大臣が戦艦ミズーリ号上で、ポツダム宣言の受諾、無条件降伏のサインを交わす前ですから、8月15日は、終戦記念日とするのが正しい、と僕は言い続けてきました。あの時は、もし、本当に本土決戦まで戦争を続けていれば、この僕は、確実に、存在していなかったからです。いえ、この国も、おそらく・・・
熱い真夏の正午でした。前日に、重大発表があると知らされていたので、日本全国ほとんどすべての国民が、ラジオの前に集まって耳を傾けました。NHKラジオから「大東亜戦争終結ノ詔書」が、玉音(天皇の肉声)で流されたのです。おそらくほとんどの国民は、神と崇められていた天皇陛下の肉声を、初めて聞かされた筈です。僕は、中学一年生、夏休みで、焼け跡を開墾した家庭農園で作っていた薩摩薯の蔓返しか何かの作業の手を休めて、ラジオの聞こえるところに駆けつけました。三度の空襲で焼け出された僕の一家は、小石川の高台の1500坪(5000㎡)という広い敷地に立っていた屋敷で辛うじて焼け残った二階建ての土蔵に住まわせて貰っていたのです。一家と言っても、海軍省に学徒動員勤務していた長兄は官舎、「兄ちゃん、どうだ、いきなり士官になれるんだよ」と街角で声をかけられて、工業中学から少年航空兵として入隊し、基地で特攻訓練を受けて出陣を控えていた次兄、学童疎開中の弟、父方の田舎に祖母と縁故疎開した幼児の妹を除いて、その時は、父母と僕、僅か3人の暮らしでしたが、近隣の人も我が家のラジオを聞きつけて数人集まって来ていました。
あの頃、詳しく発表されていませんでしたが、事実としては、すでに沖縄はほぼ全土が、激戦ののち上陸した米軍の支配下にあって、制空権を奪われて反撃する戦力を失った日本の空には米軍の関西爆撃機や戦闘機が縦横無尽に飛び回って、都心の大半が焦土と化した東京以外の主要都市、工業都市、工業拠点など、米軍のほしいままに爆撃されている状況でした。それでもなお、日本本土決戦が叫ばれて、一億一心火の玉だ!一人一殺!などという標語で、遮二無二国民の戦意を搔き立ててはいたものの、海、空、陸、全ての戦力が抗戦の余力を失っていて、内閣中枢は、すでに秘密裏に戦争終結の方策に狂奔していたのですが、情報統制が厳しく行われていたので、一般国民には、そこまで絶望的な戦況とは知らされていなかったのです。
その年の3月初旬、僕たち東京都の小学6年生は、木と紙とほんのわずかなコンクリートで出来あがっている首都東京焦土化の空爆がすでに頻繁に行われ始めていたにも拘らず、各地方の学童集団疎開地から、中学受験の為に東京に帰って入試の日を待ち受けていたのです。栃木県の学童集団疎開先から東京(本郷、現在の文京区)に帰ってきていた僕は、3月10日払暁に襲い掛かった、米軍のB29超大型爆撃機述べ300余機の焼夷弾爆撃で焼け出されたのを手始めに、4月13日には、避難先の大塚であやうく焼夷弾の直撃を受ける恐怖に晒され、その後、まるで、米機に追い回されるように、5月25日には、紳士服仕立て販売業の父の顧客が地方へ疎開した後の小石川の高台にある広大な敷地の空屋敷に、留守番という形で住まわせてもらっていたそこでも焼け出されて、辛うじて焼け残った土蔵に住まわせて貰っていたのです。退避、避難の度に抱えて持ち出したドイツ製ミシンの頭部を手回しして、洋服や、時にはモンペなどを仕立てて、物資不足で相手にされない貨幣ではなく物々交換で食料を手に入れる暮らしでした。
すでに8月6日には広島に、9日には長崎に、わずか一発で甚大な被害を与えて大都市を壊滅する新型爆弾が投下されたことが報じられていました。日本本土の制空権を得た米軍の航空機からばらまかれた降伏を促すビラも、密かに人から人を通じて出回っていて、父親はじめ近隣の大人たちは、厭戦気分に陥って、撤退、玉砕と報じられるあちこちの戦況から、敗戦の兆候を感じていたので、いよいよ来るべき時が来たのだ、という緊張というよりも、何かしら諦めとの中間のような感じで耳を傾けていたのが、国民学校で、軍国の少国民一本鎗の教育を叩き込まれていた僕には、大人たちの態度が、すごく非国民で、嫌なものに見えていたのです。
広島と長崎に投下された新型爆弾については、4月13日の爆撃で校舎を焦土化されて、焼け残った近隣の小学校の小さな机椅子の教室で行われていた夏休みの補習授業で、理科の教師から「原子核を爆発させて一瞬にしてあらゆる建造物や人間はおろか、動植物を破壊炎上して、焦土には、ながく放射能が滞留して生命の再生を許さない新型原子爆弾である」という事を、焼失した母校に隣接していた理化学研究所で、「仁科博士を中心に、わが国でも秘密裏に研究して、まもなく完成するはず・・・」という悔しさを交えた解説で知識を得ていたので、なんとなく、(盟邦ドイツが発明して、周囲の半枢軸国英仏を震え上がらせたV1号、V2号のように、何か画期的な新兵器があるのではないか)などと考えてもいました。次々に新聞発表された高性能の新型戦闘機が、それまでの空襲で、姿さえも現さなかったことも忘れて、子供新聞や絵本、雑誌で培われたロマンティックな戦時少年の夢を捨てきれていなかったのです。
待ち続けた正午直前です。おせっかいな近所の小父さんが、より明確に聞こうという善意だったのでしょう、ラジオのダイヤルに手をかけて、周波数をより正確に調整しようとしているうちに、雑音の中から浮かび上がってきた厳かに告げるアナウンサーの案内の後、生まれて初めて聞く天皇陛下のお言葉が聞こえたのですが、雑音混じりの上に、耳で聞くだけでは、僕たちにはほとんど理解不能な漢語や古語を混えたものだったので、かなり後の「・・・爾臣民、堪え難きをたえ、忍び難きをしのび、以って太平を開かんとす」の、漸く聞き取れたお言葉を、「艱難に耐えてなお東洋平和の為に聖戦を遂行せよ」と激励しているのかと受け取って聞いてしまったのです。
首都決戦を覚悟した僕は、あの時、思わず、気を付け!の姿勢までしたかも知れません。
悲壮な決意と、命を懸ける恐怖から、ぶるっ、と全身に震えが走ったくらいの記憶があります。
ところが、
「負けだ・・・終わりだ、終わりだ」
一瞬の間をおいて、誰かの声がそういったのです。
「えっ?何を言うか!」
思わず父を振り返ると、休めていた手を動かして、黙々と、まだ親指ほどにもならないうちに掘り出してきた薩摩芋を、てんぷらに揚げている姿です。
母は、焼け跡から持ち込んでレンガの上に載せた大きなドラム缶の風呂に、せっせと継ぎの当たった衣類を投げ込んでいます。戦争につきものの、虱を煮沸殲滅するのです。そこに見えたのは、
「終わった・・・」
という、二人とも、安堵した姿でした。
「そうか・・・」
僕の耳の中に、やや甲高い天皇陛下の肉声が、蘇って聞こえていました。
「爾臣民堪え難きを堪え忍び難きをしのび、以って太平を開かんとす」
  
 明治以来、欧米の植民政策と並んで、大東亜共栄圏を築き上げてその盟主として豊かな暮らしを築こうとする野望の果てに得た笑止の結末でした・・・でも、今では考えにくいほど
の神生が働いたのでしょうか、皇国の臣民は、ほとんど冷静に、全面降伏のポツダム宣言受諾の詔勅、終戦の布告を受け容れたのです・・・

僕は、そこから立ち上がり、75年もの時間をかけて得た平穏な暮らしが、いま、崩れかかっている気がしてならないのです。
新型コロナウイルス騒ぎに揺れる世界で、戦争を知らない世代のリーダーたちが、戦争への道へ、戦争に引き込まれる道へとミスリードしている気がしてならないのです。新型コロナウイルスをめぐっての世界の首脳たちの打ち出す政策の個々に、その恐れを感じるのです。
わが国でも、戦争の記憶が、急速に消し去られている気がしてならないのです。戦争の恐ろしさ、虚しさについてほんのかけらしか経験していない僕たちにも、戦争の記憶をレガシイとして残してゆく責任があるのではないか、と思うのです。
8月は、戦争を思い出し、戦争の虚しさを学ぶ月。その思いから、この断章を呟きました・・・


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