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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №31 [文芸美術の森]

第六章 個展の会場にて 2

          早稲田大名誉教授  川崎 浹

 「青木繁の絵は酔っぱらっている」                        

 昭和三十四年(一九五九)九月六日夜、「高島さんを訪問、個展開催案内状を発送する
ために四十枚をもらい、画家と渋谷に行きパフェを食べる」と日誌にある。案内状には「ここ七、八年の作品を個展致します。御来観御高評おきかせ下されば、まことに幸いに存じます」と画家の挨拶文があり、前回の個展は高島さんに私が初めて遇う三年前の昭和二十六年(一九五二)、銀座資生堂で開かれていた。
 今回は丸善である。丸善の創業者が福沢諭吉の門下生と聞くだけで、丸善が日本の近代化において学術文化の紹介に果たした役割が推しはかれよう。日本橋の丸善と洋書は切り離せない。かつての丸善は芥川龍之介や中村真一郎をはじめ多くの作家に愛された。
 以前に野十郎が参加した「黒牛会」には東京美術学校(現東京斐術大学)出身の者もいて、だれ言うとなく丸善が会場になった。丸善と「黒牛会」、そして野十郎の登場となる。
 博多大丸の野十郎個展では、一小評論家が辛口の批評をくわえたのとは別に、出品作品の殆どが愛好者の手に渡り、わずかに六点のみが東京の丸善画廊に持ち越されている。そのなかに《からすうり》《秋の花々》《寧楽の春》などの傑作が含まれていた。ちなみに《からすうり》は複数あるので、久留米時代に措かれた作品が晩年まで残ったと考える必要はない。
 新作として《洋梨とブドウ》《春の海》《有明と雲仙)《しだれ櫻》《青いリンゴ》その他の佳品が加わり、全部で三十五点。これらの絵は私の懐具合からはずっと遠いかなたの地平に眺められた。
 初日の九月九日夜、当時は売れっ子だった粋なズボン吊り姿の画家、佐野繁次郎が訪れてきた。私の日誌に「高島さんといっしょに銀座の(天一)でご馳走になる」とある。高島さんにも有名な酒落た友人がいるものだ、というのがちょっとしたスノッブ気取りの(?)私の印象だった。
 このときの個展に私の見知らぬ同年配の青年がいて、高島さんに青木繁の絵について感想をもとめた。むかし野十郎が義姉に贈った《月夜の雲》が青木繁の絵に似ているという多田氏の指摘があり、それも無視できない。ところが高島さんは言下にこう言い放った。「青木繁の絵は酔っぱらっている」。「えっ、酔っぱらっている?」。私と青年は思わず顔を見合わせた。
 そのことが私の頭にこびりついていたので、近年ブリヂストン美術館で青木繁の《海の幸》その他が展示されたのを機に久しぶりに訪れた。日本の近代絵画に元気をあたえたといわれる作品の舞台は、詩人宇朗が青木につよくすすめた房総半島の館山布良海岸である。それはまた宇朗と野十郎の母方の叔父である大倉正愛(まさよし)が画題として愛した土地でもあった。宇朗のつよい勧めで、繁がすっかりその気になって坂本繁二郎や福田たね(のちの妻)まで誘って訪れた海岸が舞台である。
 京橋の美術館に入って、無知な私は《海の幸》(一九〇四)をひと日見るなり、これは反戦の寓意をこめた絵だろうかと我が目を疑った。半裸の男たちが隊列をなし棒を肩に大魚を担いでいる。大魚は敵に討たれた同胞であり、運ぶ漁夫たちは辛うじて歩む敗戦の兵たちと重なって見える。全体にうす暗く、大群は淡い茶黄色に染まり、獲物を運ぶ男たちの姿勢も、足もともおぽっかなげに見えた。
 これは私の先入観のせいだろう。もちろん青木の数々の絵は、その独創性において日本近代洋画史上の名作である。ただ、かれの浪漫派的な画風を、写実派の野十郎が「酔っぱらっている」と、そう見た。また青木の晩年の凋落と、大酒を飲んで野十郎の母カツに疎まれていたかれの実像が、野十郎の脳裏にあったのか、それはなんともいえない。


『過激な隠遁~高島野十郎評評伝』 求龍堂


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