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いつか空が晴れる №86 [雑木林の四季]

            いつか空が晴れる
        -雨の夜に「壇ノ浦」を聴くー
                   澁澤京子

 琵琶というと「耳なし芳一の話」とか、黒沢明の「七人の侍」の雨降る晩の木賃宿で盲目の僧がベンベンと琵琶をかき鳴らすシーンなど陰隠滅滅たるイメージが強い。
去年の秋、上野の正倉院展で展示されていた琵琶の造形の美しさと、博物館の展示のBGMとして流れていた琵琶の音色には圧倒されたのであった。
なんて色っぽい楽器だろう・・
シルクロードを渡ってきた琵琶のルーツには、ピタゴラスのリラがあるのだろうか・・

・・・笛の音も琴の音もいみじのことや、此の世のものならぬ妹背の御才どもかな、容貌、ありさまもかくこそはあらめと聞くに、そぞろに涙こぼれて、しのぶべくもあらねど、「真野のあまり」をうちうそぶきて、反橋の方に立ち出でたれば、中納言琵琶をふと取り換えて「押し開きてきませ」とかき鳴らしたり。 「とりかへばや物語」

ここで、催馬楽という当時の歌謡曲のようなものを中納言が演奏しているように、琵琶という楽器は平安貴族が愛好し、源氏物語の明石の君は琵琶の名手とされて登場してくるし、鴨長明もまた琵琶の名手だった。室町時代は「平家物語」を琵琶で聴くことは皇族、貴族から庶民まで人気があったらしい。

この間、鶴田錦史の琵琶を友人に薦められてyou tubeで「壇ノ浦」を聴いたら、あまりの迫力に興奮して眠れなくなってしまった。
武満徹の「ノヴェンバーステップス」で鮮やかに登場する天才琵琶師、鶴田錦史。

鶴田錦史の伝記、「さわり」佐宮 圭著はとても面白かった。
「とりかへばや物語」の才気溢れる活発な姫君のように、男性としての人生も女性としての人生も、また、ある時は天才琵琶師として、ある時はやり手の実業家としての人生を歩んだ鶴田錦史。こんなにダイナミックな人生を歩むスケールの大きな女性が日本にいたなんて。

11歳にしてたくさんの弟子を持ち家計を支えていたというから、女性の自立も何も、彼女は子供の時からその才能によってすでに自立した女性だったのだ・・

・・・その中で鶴田さんは、私が、精神的な師匠と呼べる人だ。音楽家として優れているばかりではなく、人生の達人でもあられるし、その人柄は無垢で、これは大先達に対して礼を失することになりかねないが、時に、まるで幼児のように無邪気で、その豊かな人間的な滋味は計りしれない。 『武満徹・音楽創造への旅』立花隆

武満徹が、その人柄も才能も絶賛する鶴田錦史。
お正月の席で、ライバルの美貌の琵琶師・水藤錦穣から古びた着物を馬鹿にされ、琵琶界からふっつり姿を消したと思ったら、今度はやり手の実業家としてめきめきと頭角を現すのだから鶴田錦史という人は普通の人じゃない。
天才というのは、才能はもちろんのこと、集中力も、あふれるエネルギーも普通の人のレベルを遥かに超えているものだろう。そして、そのエネルギーの奔流は、男であるとか女であるとか芸術家であるとか実業家であるとか、そういった世俗の分別などは押し流してしまうほど勢いの強いものなのではないだろうか。
「平家物語」では、世をはかなんで出家して別の次元の人生を送り始める者が多いけど、鶴田錦史は障害に会うたびにそれを乗り越えるため、別の次元の生を生きた。
そして、もう一人の天才、武満徹との運命的な出会い。

・・・つまり一番美しいのはノイズだという発想に他ならないのです。・・・日本の楽器には、すべて不自由な「さわり」の装置というか、障害装置が付いている。音が出しにくくつくられているわけです。だから、もしその音が本当に出た時には、その音の自由さはものすごく大きいわけです・・・『武満徹・音楽創造への旅』立花隆

「ノヴェンバーステップス」で、尺八と琵琶の登場によって、私たちがいきなり異空間に連れて行かれる感じと不思議な美しさを感じるのは、西洋の音、東洋の音という異質な二つの音を武満徹が安易にブレンドしたり、無理に調和させなかったお蔭なのかもしれない。

そして武満徹の音楽にとって、数々の苦難を乗り越えて生きてきた鶴田錦史との出会いは計り知れないほど大きかっただろう。
二つの円があって、その中心が重なることってめったにないことないけど、この二人の出会いはまさにその中心の重なるような稀有な出会いだったのかもしれない。

・・・私の歌は 飾りを捨ててしまいました
   衣装や飾りについた誇りはもうありません
   飾りは私たちが一つになることを妨げます  
・・・自分自身に近づく道は
   一番遠い旅路なのだ
   単純な音色を出すためには
   一番面倒な訓練がいるのだ・・・
                                      『ギタンジャリ』タゴール
 
鶴田錦史に「琵琶のための即興曲」という曲がある(you tubeで聴けます)
坐禅をしていると、身体が空洞になって周囲の音がその空洞に響きわたるような感じになることがある。鶴田錦史の「琵琶のための即興曲」は、その坐禅しているときに、音が身体の中に響く感じにとても似ているのである。

・・・一音として完結しうる音響の複雑性、その洗練された一音を聴いた日本人の感受性が間という独自の観念を作り上げ、その無音の沈黙の間は、実は複雑な一音と拮抗する無数の音の犇めく間として認識されているのである・・・『武満徹・音楽創造への旅』

さらに、武満徹は日本音楽の自然に近い音色に「怖さ」を感じるということも述べている。

・・・それを聴いてそこに足を突っ込んだら、俺はどうしても抜け切れないんじゃないか。・・その怖さというのは何かというと、魔的な魅力ということもあるんですけど、熟れてきて退廃になっちゃうんじゃないか。いつもそう感ずるわけです。・・『武満徹・音楽創造への旅』

その怖さとは、もしかしたら古代ギリシャ人が「無限」に対して持っていた恐怖心と似ているところがあるんじゃないだろうか?「個」というものを一瞬にして崩壊させてしまうような不気味さ。

最近、渋谷駅のバス停近くの路上で篠笛の練習をしている男の人を時折見かける。
再開発されたビルの立ち並ぶ渋谷の雑踏に鳴り響く篠笛の音は、なぜかしーんと落ち着いて、妙にしっとりとあたりの風景になじんでいる。

~なお、友人が教えてくれたのだが、「さわり」には二種類あって
「障り」・・ノイズによって意図的に耳障りな音にする
「触り」・・弦と駒(琵琶では柱)を接触させることによってノイズを出す
インドのシタールには、Jawari(ジャワリ)という、(触り)と同じように弦と駒を接触させる手法があるという。「さわり」との関係は不明であるが、アジアではノイズを好む文化が多いということかもしれない。
なお、正倉院の琵琶、雅楽系の琵琶(薩摩琵琶などに比べると重い)では「さわり」は使われないそうだ。・・ということは「さわり」は持ち運びができる小型の琵琶(薩摩琵琶など盲目の琵琶法師によるもの)とともに広まったのか?謎である・・・・


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