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梟翁夜話 №66 [雑木林の四季]

ギターの話(下)

               翻訳家  島村泰治

ギターは抱(だ)き抱(かか)へてなんぼの楽器だ。弾き手にとって親和感がこれほど深い楽器はない。カザルスの弾き姿からチェロも同じ感覚だから、チェロも体感型の楽器と云へるかも知れない。

コウノが届いてヤマハを人に譲り、新(さら)のギターを抱へることになった。弾くと音がまるで違う。技はさておき道具の違ひでかうも違ふか、とつくづく思ふ。勢ひ弾く時間が増へ技が進み難曲に挑む気概も高まる。コウノが来て私のギターは一皮むけた。F先生とは教わる以外にギター仲間との合奏セッションで合はせる機会が増へ、チェロや笛の連中も加わって定期的な演奏会も企画された。

ある時、地元の放送局から依頼があり、F先生にも尻を押されてカメラの前で弾く羽目になった。羽目になったとは、それが忘れられないほどの経験になったからだ。後にも先にもテレビカメラに手元を舐められながら弾いたことのなかっただけに、投射されるライトとカメラの動きに意識を盗られてぽしゃったのだ。

弾いた曲はバッハの前奏曲、原曲のチェンバロ曲から編曲された至極知られたニ短調の曲で、日頃愛奏もし、すっかり手の内に入ってゐたのだが、例のカメラの挙動に幻惑され、繰り返しの部分から先へ進むブリッジをど忘れして、何のことはない繰り返しを二度やってしまったのだ。二度目を弾きながらブリッジを思い出さうとする。時間にすれば5分程度だが、あれほど長い時の流れを感じたことはなかった。幸ひ何とかブリッジに繫げて弾き終わったときは全身冷や汗だった。他人様には滅多に語れない秘話である。

私がシュウベルトをこよなく愛するのもギターに縁がある。知る人ぞ知る、シュウベルトはギターを身近に置いてゐた。ディレッタントを超えるギター弾きだったとも云はれる。歌曲に名曲が多いが、ギターで発想したらしい作品が少なくない。名曲「セレナーデ」は紛れもなくギター伴奏を想定してゐる。

シュウベルトの転調の妙は音楽好きなら知らぬものはゐない。シャープだらけからフラットづくしに乗り移る異形は、鍵盤楽器には鬼門だが、ギターのフレット移動からは一向に不思議ではない。そもそも、旋律を紡ぐには鍵盤の前にどんと構えるよりは、ギターをわが身のように抱き抱へる方が遙かにその気にならうと云ふものだ。シュウベルトが「リートの王」たるには、ギターの存在が欠かせない。

右手中指の不調を切っ掛けのギター話がえらく迂回してしまった。拙稿を打ち込みながら、ふっとその指が固まったことからそれと気づき、話を戻さうと思ふ。

私の指の不調を気にした愚妻が、わが庵から北、熊谷辺りに手に特化した名医がゐることを調べ上げてくれた。手外科とか、だうやら手の不具合を診てくれるらしい。実は三四日前に衝動的に出掛けて渋滞に巻き込まれ、無駄足をした経緯がある。近々改めて出直す算段をしてゐる。

その手外科では、指一本の関節一個ぐらいなら、さっと、切った貼ったで処置されるかも知れない。さて、処置した後で何事もなかったかのやうにギターが弾けるだらうか。むしろ剛胆の私が、ことこの指についてはその処置の帰趨に繊細に反応してゐるのだ。ギターが弾けなくなってしまふなら、何とか拾ひ弾きができるいまのままでいい、などと心中ごねてゐるのだ。仮にこの指が動かなくても、ぽろんぽろん程度には音が出せるだらうから、手術はご免蒙らうか、などと内心ぐずってゐる。

弾けなくなるほど辛いことはない、ギターへの思ひはそんな感じだ。何とか保険を掛けやうと、熊谷の名医についてはあれこれ詮索をしてゐる。今日明日にも結論を出して、臍を固めねばならない。根が楽観主義に傾く質だから、来週には名医の前に座ってゐる可能性が高い。ことの吉左右は後日ご披露をしやうか、と目論んでゐる。

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