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批判的に読み解く歎異抄 №7 [心の小径]

「悪人正機」(第三条)の問題

         立川市・光西寺住職  寿台順誠

(3)「正機」と「正因」

 先ほど言いましたように、『歎異抄』三条には、「正機」ではなく「正因」という言葉が出てきます。この違いについて平雅行さんという中世仏教史の専門家は、「正機」は一次的救済対象、「正因」は一次的価値体だという区別をしています(平雅行「Ⅵ 専修念仏の歴史的意義」『日本中世の社会と仏教』塙書房、1992年、215-265ページ‥「親鸞の善人悪人観」『親鸞とその時代』法蔵館、2001年、112-167ページ参照)。これはわざわざ分かり難くするような言葉だと思いますが、「一次的救済対象」というのは「悪人ファースト」、悪人が真っ先に救われるべき存在だということです。それが「悪人正機」の意味ですね。
 それに対して悪人が「正因」、すなわち「一次的価値体」だということを分かり易く言えば、悪人の方が善人より価値が高いということです。悪人が最初に救われるべき存在だとは言っても、善人の方が価値は高いのが「悪人正機」であるのに対して、「悪人正因」の方は善悪の価値そのものをひっくり返してしまうのですから、悪人も救ってあげるのではなくて、悪人じゃないと救われないという意味になります。
 この「正機」と「正因」の違いをテキストに沿って確認しておきます。三条の「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」とあるところは二つの読み方ができますね。一つには「他力をたてまつる」ことが「往生の正因」だと読めますが、これだと信仰論上聞題がないです。これは信心を得ることが往生の正しい原因(信心正因)であるという話だから何も問題ありません。ところが、もう一つの読み方があって、「悪人」であることが「往生の正因」だという読み方です。こう読むと「悪人」にならないと救われないことになります。そして、そこに道徳的な意味を含めると、人殺しはダメだと言っちやダメなんですよ、盗みはダメだと言っちやダメなんですよというふうになってしまうんです。
 事実、私が大谷派で勉強し始めた八十年代にはよくそういう話を聞きました。靖国問題を契機に信心を問い直したことで有名な和田稠(しげし)さん(例えば『信の回復』東本願寺出版部、1975年参照)は、「悪人も救われるんじゃないんです。悪人になって救われるんです」などと仰っていました。当時はこういうことが革命的なことだと皆思っていました。私もそうでした。が、やがて私は和田さんとは襖を分かつことになりまして、今ではこれは完全に否定すべきだと思っています。これは今改めて反省すべき点だと思いますね。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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