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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №30 [文芸美術の森]

第六章 個展の会場にて 1

               早稲田大学名誉教授  川崎    浹

 「劉生は(有)以外にあるものに気づかなかった」

 少し話はさかのぼるが、昭和三十二年(一九五七)、高島さんは東京を後にして、福岡市内の知人宅や、太宰府の碧雲寺に住み居士をしていた兄宇朗の紹介で農家に滞在しながら、筑紫野の風景を描いていた。「高島野十郎油絵個展」(十月石上ハ日)が博多大丸で開かれ、出品された絵は《萩の花々》《渓流》《早楽の春》《奈良薬師寺》、《からすうり》など三十五点。
  東京に戻ってきた高島さんから私はそのときの個展会場での話を聞いた。
 ある批評家が高島さんの絵を見て、技巧は十二分だが精神性に欠けると言い、徽宗(きそう)皇帝や岸田劉生の精神を勉強なさるとよいのではと忠告した。高島さんはこう答えた。「劉生の精神を勉強したら、私の内にあらわれるのは劉生の精神ですか、私の精神ですか? 岸田劉生は銀座のバーなどで飲み歩いて(有)にとらわれ、(有)を描いた。しかし(有)以外にあるものに気づかなかった。徴宗皇帝も私のもっとも好きな画家です。しかしかれも(無)までしか到達できなかった。しかし真実は有に非ず、無に非ず。そしてそこが出発点であり、これに依って立つ主題がなければなりません」。
 私の日誌では、これから先の言葉を高島さんはつづけて相手に語ったことになっているが、おそらく私にだけ語って聞かせたのだろう、こう記されている。
 「それは(慈悲)です。(慈悲)には三つある。いちばん高いのは最高普遍の慈悲。貧窮者への慈悲がいちばん下にある、と。これが野十郎の真言思想である」。
 六十七歳の高島野十部に「岸田劉生の精神を学べ」とさとした批評家がいるとは信じられない話だが、このエピソードは野十郎の作品が一般に評価されていなかった当時の雰囲気をよく伝えている。とりわけ大戦後十年ぐらいは欣米のあらゆる絵画様式が怒涛のように紹介された。

川崎からすうり.jpg


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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