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雑記帳2020-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

20206-15
◆多摩霊園には日本が世界に誇る2人の宗教家の墓があります。

新渡戸稲造と内村鑑三です。
二人はともに札幌農学校の二期生として入学し、基督教の洗礼をうけました。

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新渡戸稲造の墓 (7区1種5側11番)

新渡戸稲造は盛岡南部藩の出。教育家、思想家として国内外の要職にあり、長く国際連盟の事務次長も務めました。1900年に英文で出版された『武士道』は、ドイツ語やフランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えたといわれています。1908年には日本語訳も出ました。その後も『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けています。
自ら提唱して誕生した「郷土会」には柳田国男も参加するなど、様々なジャンルに多くの賛同者を得、後継者を輩出しています。

中でも有名なのは、世にいうオーランド紛争の解決に尽力したことです。

スエーデン国フィンランドの一地方であったオーランドは、スエーデンがロシアとの戦争にやぶれた際、ロシアに分割されたフィンランド大公国の一部になりました。
クリミヤ戦争では非武装地帯でした。
その後、フィンランド本土ではロシア革命を機に、独立運動が盛り上がるいっぽうで、オーランド諸島では逆にフィンランドから離れて再びスウエーデンに帰属を求める運動が起こります。

この問題の解決に大きく貢献したのが、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造でした。
オーランド諸島のフィンランドへの帰属を認め、そのかわりオーランドのさらなる自治権を確約するという「新渡戸裁定」が示されて、オーランドの自治が確立したのでした。
いつの時代も領土問題は複雑で、一筋縄ではいかないことを知っている世界が求めたのが東洋の知恵だったことは興味深いではありませんか。
その後、民意がゆれることもありましたが、現在、オーランド諸島は形の上ではフィンランドの一部であり、実態はほとんど独立国で、島民はスエーデン語で生活しています。

ともに同時期に基督教の信徒となった内村鑑三とは、札幌農学校前の語学学校時代から生涯を通じて親交が続きました。内村の『余は如何にして基督信徒となりし乎』も英文で出され、今も根強い読者をもっています。
アメリカ留学中に西洋の拝金主義に絶望して帰国した内村は、紆余曲折を経て無教会を提唱しました。基督信徒にとって一番大切なものはなにかを問い、信仰の中心に教会ではなく、十字架と聖書を置いたのです。ひたすら唯一の神を信じて人を愛し、集会を形成していく運動は、世界に脈々とうけつがれています。

二人は私生活でも対照的で、新渡戸が留学中に学生結婚したメアリー・エルキントンと生涯そいとげたのにたいし、内村は死別もあってなんどか再婚しています。親族とも折り合いがよかったとはいえないようです。勤め先や立ち上げた結社では意見の対立がしばしば起きました。
今は二人とも同じ多摩霊園にねむっています。

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内村鑑三の墓  (8区1種16側29番)

学生時代からずっと心にかかっている詩人が小熊秀雄です。
始めて接した彼の『蹄鉄屋の歌』に、それまで叙情詩くらいしか知らなかった私は強烈な印象をうけました。

   泣くな、/   驚ろくな、/ わが馬よ。
  私は蹄鉄屋。
   私はお前の蹄〔ひづめ〕から / 生々しい煙をたてる、
  私の仕事は残酷だらうか、
   若い馬よ。/ 少年よ、
  私はお前の爪に / 真赤にやけた鉄の靴をはかせよう。
  そしてわたしは働き歌をうたひながら、
 ——辛抱しておくれ、
 すぐその鉄は冷えて/ お前の足のものになるだらう、
 お前の爪の鎧になるだらう、
 お前はもうどんな茨の上でも / 石ころ路でも
 どんどんと駈け回れるだらうと——、
 私はお前を慰めながら / トッテンカンと蹄鉄うち。
 あゝ、わが馬よ、/ 友達よ、
 私の歌をよつく耳傾けてきいてくれ。
 私の歌はぞんざいだらう、/ 私の歌は甘くないだらう、
 お前の苦痛に答へるために、/ 私の歌は / 苦しみの歌だ。
 焼けた蹄鉄を/ お前の生きた爪に
 当てがつた瞬間の煙のやうにも、
 私の歌は/ 灰色に立ちあがる歌だ。
 強くなつてくれよ、/ 私の友よ、/ 青年よ、
 私の赤いほのほを / 君の四つ足は受取れ、
 そして君は、けはしい岩山を/ その強い足をもつて砕いてのぼれ、
 トッテンカンの蹄鉄うち、
 うたれるもの、うつもの、/ お前と私とは兄弟だ、
 共に同じ現実の苦しみにある。            (/改行)

その時、小熊秀雄が小林多喜二と同時代を生きたプロレタリア詩人だと知ったのですが、ちょうど作曲家の林光が曲をつけて合唱曲にしあげていました。林光は最後の1行をけずって「お前と私とは兄弟だ」をクライマックスにもってきていました。楽曲としてはそうだなあという感じがします。

とにかく私の中で音といったいになって、その後半世紀も身近にあった詩でした。今ではプロレタリアという言葉も聞かれなくなりましたが、蹄鉄をつけてもらった馬が少年から青年へと成長するのを願う詩は、現在のロックやラップにくらべたら、全然過激ではありません。
詩人は馬が好きだったらしく、馬をモチーフにした作品はほかにもあるようです。

ずっとあとになって、信州上田に無言館を訪ねた折、隣接する信濃デッサン館で小熊秀雄の小さな額がかかっているのを見つけた時にはびっくりしました。
小学校卒の詩人が独学でロシア語をマスターし、ロシア文学に親しんだことを知ったときも驚いたものでしたが、実は絵の才能もあって、彼の描いた漫画はのちの手塚治虫や松本零士にも影響をあたえています。

この天才の墓が多摩霊園にあったのです。
迷いながら漸く辿りついたのは、小さな黒御影の墓でした。戦時中、貧困のうちに肺結核で亡くなった詩人の墓が有志によって建てられたのは、没後40年以上もたってからでした。長男もすでになくなり、一人残された未亡人も墓が建立された翌年にはなくなっているので、継承者がなければ2020年度中に墓は撤去されるとききました。ひょっとしたら、私が墓の写真を撮りに来た最後の一人になるかもしれません。

郷里の北海道では、旭川市が小熊秀雄賞を設け、現在は市と協働する市民実行委員会がその事業をひきついでいます。小熊秀雄らしいですね。選考委員にはアーサー・ビナードさんもいます。毎年、全国から応募があるそうです。

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小熊秀雄の墓  (24区1種68側32番)

霊園には与謝野晶子、鉄幹夫婦も仲良く並んで眠っています。
鉄幹が講師を務めた縁で、墓石は文化学院の西村伊作のデザインだということです。

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与謝野鉄幹・晶子の墓 (11区1種10側10番)

◆立川に新しい街が誕生しました。
ホテルやホールのある一角は、グリーンスプリングズと名付けられています。(温泉がでたのです!)コロナ騒ぎで5月のグランドオープンはひっそりと、3000人収容のホールもまだこけら落としができないでいます。1か月おくれでこの6月8日には、テニスの杉山愛さんや国文研のロバートキャンベルさんを迎えてSORANO HOTELのテープカットがありました。

ホテルの玄関は通りの2F屋上にあたり、空中のビオトープをそなえた広場を前にしています。広場を中心におしゃれなカフェが並んで、テラスでお茶やランチを楽しむ雰囲気がぴったり。コロナでレストランの食事風景が変わると言われるのを先どりしたような光景です。
さらに、広場からホールの5F屋上スカイデッキに通じる外階段の半分は水の流れる空間で、例年より早く暑くなったこの季節、子どもたちの歓声が響きました。

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3000人収容のホール・ステージガーデン
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空中のビオトープ
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外階段の半分は水場。
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噴水の向うは美術館
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テラスでお茶も心地よく
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街角アートも随所に


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