多摩のむかし道と伝説の旅 №43 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩周辺の義経伝承路を巡る 4
原田環爾
新百合山手大通りを南へ下ると左から広い車道がT字路でぶつかる。車道を渡ると左手角地に『笹子』と称するモダンな手打ちうどん屋がある。うどん屋の建屋の右側の壁に貼りつくように小祠がある。これが先の移設されたという笹子稲荷なのだ。かつては鬱蒼とした丘陵の林のなかにあったものが今は喧騒な車道脇のうどん屋の片隅で、いささか笹子姫が哀れである。
ところで笹子姫の墓所ではないかと言われる笹子稲荷は、もとは旧笹子農道(現新百合山手大通り)の奥まった所の右手丘の鬱蒼とした林の中にあったという。それが大規模開発で、今は新百合ヶ丘駅北口の『手打ちうどん笹子』の片隅に移設されたのである。実はうどん屋の主人中島氏はこの地の昔からの旧家で、笹子農道沿いにあった住居のすぐ近くに笹子稲荷があったという。
笹子稲荷から更に大通りを東へ進むと津久井道との交差点『新百合ヶ丘駅入口』に来る。そこを左折して先の笹子うどんの裏手に回ると、高台の上に津久井道に沿って十二神社がある。急階段の参道を上がると細長い境内の奥にこじんまりした本殿がある。正徳元年(1711)の建立で万福寺地区の氏神である。祭神は五穀を司る食物の神様宇気母智大神。十二とは十二柱の神を意味し、天神七代と地神五代からなり、これらの神々を祀っていることから十二神社と呼ばれるという。かつては鬱蒼とした林の中にあったのであろうが、近年の大規模開発に伴い平成17年に再建されたものであり、真新しすぎていささか趣に欠けるのはいたしかたない。
元の津久井道に戻り、交差点『新百合ヶ丘駅入口』を渡り駅方面に向かうと、すぐやや狭い街路と交差する。何の変哲もない道であるがこの道こそ、本来の津久井道、すなわち旧津久井道なのである。ちなみに津久井道とは三軒茶屋を起点とし、登戸、生田、万福寺、柿生、鶴川、橋本を経て津久井へ至る道である。津久井往還ともいう。津久井道は沿道の人々の生活を支える商業路で、麻生の禅寺丸柿や黒川炭、絹の原料の繭を江戸に運ぶ道であり、また津久井、愛甲地方の生糸などがこの道を通って江戸へ運ばれた。
さて辻を右折して旧津久井道に入る。緩やかに左へカーブしながら進むと広い車道『細山線』に出る。旧道はそのまま横切ってまっすぐ進む道であるが、寄り道してすぐ近くの隠れ谷公園に立ち寄ることにする。細山線を南へ少し進んで一本裏の街路に入る。街路を進むと程なくその公園にぶつかる。公園は正式には『上麻生隠れ谷公園』と称する。南北に細長い公園で、園内中央に高圧鉄塔が立っているほかは何の特徴もない普通の公園である。ただ隠れ谷という名は尋常ではない。実は戦国時代のこの周辺で繰り広げられた上杉と後北条との小沢原の戦に由来しているという。すなわち戦国時代の享保3年(1530)、関東を掌握していた扇谷上杉氏と新興勢力である小田原北条氏が小沢原で大規模な戦を展開した。小沢原とは川崎市多摩区の菅付近から麻生区細山や金程、更に稲城市平尾に至る広範囲を指すという。すなわち北条氏綱の息子氏康が若干16歳にて府中に進軍してきた上杉朝興と戦ったが、その折氏康が軍勢や武器を隠した所というのが隠れ谷として伝承されているという。ちなみに隠れ谷公園の近くを流れる麻生川は『陣川』の異名を持つという。
元の旧津久井道に復し麻生川に架かる共和橋を渡るとそこから先は古沢地区となる。古沢は平安末から鎌倉時代にかけて武蔵七党のひとつである横山党の古沢氏が地盤とした所という。その古沢に入ると、道は右に丘陵、左に田畑が広がるローカルな鄙びた風景の中をうねうねと縫う里道に変貌する。程なく小さな集落の中に入る。その中程に来た所で右へ入る細い分岐道が現れる。分岐点には『九郎明神社入口』と記した案内板が立っている。分岐道をほんの50mも 入れば左手奥まった所に九郎明神社の赤い鳥居が現れる。鳥居をくぐり鬱蒼とした竹林で覆われた急階段の参道を上がればそこに小さな社が佇んでいる。その名が示す通り、九郎義経の伝承を有する神社である。
九郎明神社の祭神は源義経である。その昔、頼朝が平氏追討の旗揚げをした折、それに応じて鎌倉へ馳せ参じた義経・弁慶一行が、途中古沢の部落で宿泊し、そのお礼に 一振りの刀を村民に授けたといい、その刀を祀ったのが始まりと伝える。なお授かったのは刀ではなく鉄扇であったという言い伝えもある。あるいはまた別の伝承によると、義経が頼朝に疎まれ奥州平泉で鎌倉幕府に討伐された折、義経の家臣であった古沢の豪族が義経を偲んで祀ったともいう。
九郎明神社を後にすると今回の旅はここまでとする。終着駅五月台駅はもうすぐだ。(完
ところで笹子姫の墓所ではないかと言われる笹子稲荷は、もとは旧笹子農道(現新百合山手大通り)の奥まった所の右手丘の鬱蒼とした林の中にあったという。それが大規模開発で、今は新百合ヶ丘駅北口の『手打ちうどん笹子』の片隅に移設されたのである。実はうどん屋の主人中島氏はこの地の昔からの旧家で、笹子農道沿いにあった住居のすぐ近くに笹子稲荷があったという。
笹子稲荷から更に大通りを東へ進むと津久井道との交差点『新百合ヶ丘駅入口』に来る。そこを左折して先の笹子うどんの裏手に回ると、高台の上に津久井道に沿って十二神社がある。急階段の参道を上がると細長い境内の奥にこじんまりした本殿がある。正徳元年(1711)の建立で万福寺地区の氏神である。祭神は五穀を司る食物の神様宇気母智大神。十二とは十二柱の神を意味し、天神七代と地神五代からなり、これらの神々を祀っていることから十二神社と呼ばれるという。かつては鬱蒼とした林の中にあったのであろうが、近年の大規模開発に伴い平成17年に再建されたものであり、真新しすぎていささか趣に欠けるのはいたしかたない。
元の津久井道に戻り、交差点『新百合ヶ丘駅入口』を渡り駅方面に向かうと、すぐやや狭い街路と交差する。何の変哲もない道であるがこの道こそ、本来の津久井道、すなわち旧津久井道なのである。ちなみに津久井道とは三軒茶屋を起点とし、登戸、生田、万福寺、柿生、鶴川、橋本を経て津久井へ至る道である。津久井往還ともいう。津久井道は沿道の人々の生活を支える商業路で、麻生の禅寺丸柿や黒川炭、絹の原料の繭を江戸に運ぶ道であり、また津久井、愛甲地方の生糸などがこの道を通って江戸へ運ばれた。
さて辻を右折して旧津久井道に入る。緩やかに左へカーブしながら進むと広い車道『細山線』に出る。旧道はそのまま横切ってまっすぐ進む道であるが、寄り道してすぐ近くの隠れ谷公園に立ち寄ることにする。細山線を南へ少し進んで一本裏の街路に入る。街路を進むと程なくその公園にぶつかる。公園は正式には『上麻生隠れ谷公園』と称する。南北に細長い公園で、園内中央に高圧鉄塔が立っているほかは何の特徴もない普通の公園である。ただ隠れ谷という名は尋常ではない。実は戦国時代のこの周辺で繰り広げられた上杉と後北条との小沢原の戦に由来しているという。すなわち戦国時代の享保3年(1530)、関東を掌握していた扇谷上杉氏と新興勢力である小田原北条氏が小沢原で大規模な戦を展開した。小沢原とは川崎市多摩区の菅付近から麻生区細山や金程、更に稲城市平尾に至る広範囲を指すという。すなわち北条氏綱の息子氏康が若干16歳にて府中に進軍してきた上杉朝興と戦ったが、その折氏康が軍勢や武器を隠した所というのが隠れ谷として伝承されているという。ちなみに隠れ谷公園の近くを流れる麻生川は『陣川』の異名を持つという。
元の旧津久井道に復し麻生川に架かる共和橋を渡るとそこから先は古沢地区となる。古沢は平安末から鎌倉時代にかけて武蔵七党のひとつである横山党の古沢氏が地盤とした所という。その古沢に入ると、道は右に丘陵、左に田畑が広がるローカルな鄙びた風景の中をうねうねと縫う里道に変貌する。程なく小さな集落の中に入る。その中程に来た所で右へ入る細い分岐道が現れる。分岐点には『九郎明神社入口』と記した案内板が立っている。分岐道をほんの50mも 入れば左手奥まった所に九郎明神社の赤い鳥居が現れる。鳥居をくぐり鬱蒼とした竹林で覆われた急階段の参道を上がればそこに小さな社が佇んでいる。その名が示す通り、九郎義経の伝承を有する神社である。
九郎明神社の祭神は源義経である。その昔、頼朝が平氏追討の旗揚げをした折、それに応じて鎌倉へ馳せ参じた義経・弁慶一行が、途中古沢の部落で宿泊し、そのお礼に 一振りの刀を村民に授けたといい、その刀を祀ったのが始まりと伝える。なお授かったのは刀ではなく鉄扇であったという言い伝えもある。あるいはまた別の伝承によると、義経が頼朝に疎まれ奥州平泉で鎌倉幕府に討伐された折、義経の家臣であった古沢の豪族が義経を偲んで祀ったともいう。
九郎明神社を後にすると今回の旅はここまでとする。終着駅五月台駅はもうすぐだ。(完
2020-06-12 07:22
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