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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №35 [文芸美術の森]

       葛飾北斎≪≪富嶽三十六景≫シリーズ

                        美術ジャーナリスト 斎藤陽一
                                        
                    第1回 はじめに~北斎登場~
                                       
≪あらゆるジャンルを手掛けた絵師・北斎≫

 私の“日本美術へのオマージュ”とも言うべき「日本美術は面白い!」シリーズは、2019年1月に第1回「琳派~俵屋宗達」から開始して、前回で第34回に到り、「琳派の魅力」を語り終えました。
 そこまでの回で取り上げたのは、俵屋宗達、本阿弥光悦、尾形光琳、酒井抱一、鈴木其一といった琳派を代表する絵師たちです。このシリーズはまた“日本美術に関心を持つ人たちに向けてのお誘い”という気持ちから始めたものなので、まだご一読されていない方は、どうぞ、これまでの回を検索して覗いてみてください。

 さて、今回からしばらくの間は、「浮世絵の面白さ」を語っていきたいと思います。

 近年、我が国における浮世絵に対する関心の高まりは相当なもので、都内などでしばしば開かれる各種浮世絵展には沢山の人が集まります。若い頃から印象派などの近代西洋絵画を勉強し、浮世絵が西洋絵画に与えた影響について学んできた私には、「やっと肝心の日本が、西洋における高い浮世絵評価に追いついてきたのか」と思ってしまうほどです。

35-1.jpg で、これから始める「浮世絵」シリーズのトップバッターとしては、やはり、葛飾北斎に登場してもらいます。
 北斎は、世界的に見ても、「日本の画家の中で最も世界に知られている画家」と言ってよいと思います。
ひとつの例を挙げましょう。
 20世紀が終って21世紀を迎えようとした1999年のこと、アメリカの雑誌『ライフ』が「この1000年で最も重要な功績を残した世界の100人」というアンケートを実施しました。その中で、日本人で唯一選ばれたのが「北斎」でした。もう少し日本人が入ってもいいのではないか、とは思うのですが、先ず北斎が選ばれたことには納得します。それほど北斎の世界的知名度は高いのです。

 葛飾北斎が手掛けた絵画の分野は実に多岐多彩です。たとえば、役者絵、美人画、花鳥画、武者絵、摺物、肉筆画、狂歌絵本、黄表紙挿絵、読本挿絵、洋風木版画、絵手本、そして「富嶽三十六景」のような風景画など・・・。まことに多くのジャンルの絵を手掛けました。
 北斎は若い頃から、「絵師馬鹿」(ほめ言葉です)と言ってよいほど、絵を描くことに飽くことのない好奇心と集中力を持ち続け、九十年にわたるその生涯に、あらゆるテーマに挑戦した画家です。

 その中で、北斎の代表作と言えば、先ず連作「富嶽三十六景」が挙げられることが多いため、「北斎は風景画家」と思っている人も少なくないかもしれません。しかし風景画は、北斎が手掛けた様々なジャンルのひとつに過ぎません。しかも、本格的に風景画に取り組み、次々と風景画の名作を生み出したのはその晩年、70歳を過ぎてからなのです。まことに“高齢者の鑑”ともいうべき人物ですね。

 それらの風景画の中でも、当時大いに評判となり、現在でも最も世に知られている作品が連作「富嶽三十六景」です。それだけでなく、この作品は、北斎の持つ抜きんでた資質と、長年培ってきた画技とが随所に発揮されている、見どころの多い「続き物(連作)」なのです。
 また、この連作の中には、海外では“Great Wave”の名で知られている「神奈川沖浪裏」など、西洋の芸術家に鮮烈な衝撃を与えた絵がいくつも含まれています。

35-2.jpg

 そのような次第なので、「葛飾北斎」を扱うこれからの回では、思い切って連作「富嶽三十六景」の中の14点に絞り、毎回1点ずつを紹介する形式で、北斎絵画の特質と魅力について、気ままに語っていきたいと思います。
 言うまでもなく、この「浮世絵」シリーズについても、先達の浮世絵研究者の方々のすぐれた研究成果があるからこそ、その上に立って、専門外の私が勝手気ままに語ることが出来るのであり、つくづくと学恩の有難さを思います。


≪北斎の生涯≫

 北斎についての初回なので、簡単にその生涯を押さえておきましょう。
 
35-3.jpg 北斎は、宝暦10年(1760年)に江戸・本所割下水(現在の墨田区亀沢町辺)というところで生まれた、とされます。現在の両国駅近く、「すみだ北斎美術館」があるあたりです。 
    
 しかし、その幼少年時代については資料も乏しく、詳しくは分かっていません。自ら晩年に「6歳頃から好んで絵を描いていた」と言っており、さらに「少年時代には貸本屋の小僧として働き、暇あるごとに貸本の挿絵を見て絵の勉強をしていた」と語っているところから、絵を描くことがとても好きな子どもだったことが推察されます。
 安永7年(1778年)、19歳の時、浮世絵師・勝川春章に入門、「勝川春朗」の雅号で浮世絵の制作に励みましたが、35歳の時に勝川派を出ています。

 それ以後は、どの画派にも属さず、独立独歩の道を歩みました。その生涯に三十を超えるさまざまな雅号を使いながらも、「北斎」という雅号には格別の愛着があったようで、他と併用しながらずっと使い続けます。そのため、「葛飾北斎」という呼び名が定着しているのです。
 ちなみに、「北斎」という号は、彼が日蓮宗の熱心な信者であり、ことに柳島の法性寺(現・墨田区)の本尊である「妙見菩薩」を深く崇拝していたことに由来します。「妙見菩薩」は「北斗七星」の化身とされ、護国、厄除け、開運などの力を持つとされます。つまり、「北斎」の「北」は「北斗七星」に由来するというわけです。

 嘉永2年(1849年)4月に、北斎は90年に及んだ絵一筋の生涯を閉じました。その4年後の嘉永6年(1853年)には、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が日本にやってきて、江戸幕府に開国を迫っています。つまり北斎は、江戸時代後期に活躍し、幕末近くまで生きた絵師なのです。

 次回は、早速、連作「富嶽三十六景」の中から「凱風快晴」(通称「赤富士」)を見ることから始めたいと思います。
                                                            (終:次回に続く)


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