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ケルトの妖精 №27 [文芸美術の森]

 マーメイド

           妖精美術館館長  井村君江

 コーンウォール半島の北に複雑に入り組んだ入江があり、この入江近くのゼノア村に、小さな教会があった。
 この教会の番人の息子マーシ1・トレウエラは、とても美しい声の持ち主だったので、礼拝のときには賛美歌を歌って村人に聞かせる役目をしていた。
 ある礼拝の日、黒い服を着たひとりの女が教会にやってきて、美しい声で賛美歌を歌って帰っていった。彼女がどこからやってきたのか村人のだれも知らなかったが、その女の人は、礼拝の日ごとに黒い服を着て教会へやってくるようになった。
「彼女はマーシーの声にひかれているみたいだわ」
「そう言えばいつもうっとりと聞きほれているなあ」
 などと、村人たちは噂するようになっていた。そうこうするうちマーシーのほうも、この女の人の妖しく美しい声と姿が気になるようだった。そして、それはいつのまにか恋になっていった。
「ふたりはひかれあっているようだ」と噂するだけでなく、村人たちは、「あの女の人が去ったあと、教会の腰かけが塩水でいつもぬれている」と不思議がって話題にしていた。
 それから、しばらくたった礼拝の日のことだ。女の人もマーシーも教会に姿を見せなかった。その日からふたりの姿はふっつりと村から消えてしまったのである。
 村人たちは、ふたりでどこかに行ってしまったにちがいないと噂しあった。
 マーシーの父親は必死に探したが、ふたりの行方はどうしてもわからず、手がかりもひとつとしてつかめなかった。
 そうしているうちに、いつか村人たちは、マーシーのことも黒い服の女の人のことも忘れてしまい、噂にすることもなくなっていった。
 それから数年が過ぎた、ある月夜の晩。
 村の漁師が、岩が複雑に入り組むベンドアの入江あたりで、美しい歌声が波間に響くのを聞いた。漁師は不思議なことだと思ったが、歌声がどこから聞こえてくるのか確かめることはできなかった。
 しばらくして、海が荒れた晩のこと、高い波が騒いで危険だったので一艘の船がベンド
アの入江に避難して錨をおろした。
 雲がむくむくと膨れあがる空や、白い牙をむきだした波を見つめながら、船長は嵐のおさまるのを待っていた。と、船が錨をおろしたあたりの海がとつぜん白く泡だったかと思うと、泡のなかから美しいマーメイドが姿を現した。
 驚く船長に、マーメイドは言った。
「船長さん、船の錨をどけてくださいな。海のなかの洞穴を鏑がふさいでしまっているの。
だからマーシーも子どもたちも外へ出られないの」
 なにが起こり、なにを言われたのか考える間もなく、船長はすぐに船を移動して錨をどけた。
 嵐がおさまるのを待って村に帰った船長は、村人たちにこの不思議な話をした。船長はマーシーのことも黒い服の女のことも知らなかったのだが、謡を聞いた村人たちは、ふたりのことを思いだし、あの黒い服の女の人がマーメイドだったのだと思いいたった。そして、マーシーがマーメイドと結婚して、子どももでき、幸せな家庭を営んでいるにちがいないと安心したのだった。

◆ゼノア村の教会には、マーメイドの姿が彫ってある腰かけがいまもある。五百年前につくられたものらしい。キリスト教の教えではなくほかの神曹伝説で語られてきたマーメイドが、キリスト教会や寺院の柱や天井飾りに彫られているのは不思議に思えるが、マーメイドは漁師のあいだでは豊餞の女神であ。、海の精霊でもあった。キリスト教と土俗信仰が、人々の心のなかで混じりあっていた時代の名残である。
 ロンドンの南西部にあるコーンウォール半島は、南の国のようにシュロの葉が揺れ、海辺にはカモメの声が絶えない。波や風に浸蝕され岩が崩れて刻まれた複雑な形の入江がたくさんあり、そこには、アザラシが好んで入ってくる。いまではアザラシの専門病院(「シール・サンクチャリー」という)がセナン・コーヴの近くにあって、傷ついたアザラシはここで治療を受けて海へ返される。こうした自然条件のなかで、コーンウォール半島にはマーメイドの話がたくさん伝えられてきた。マーメイドが姿を見せるのは嵐の前ぶれであるとか、マーメイドは甘い歌声で人を誘惑し、海のなかに引きこんで滞れさせるなど、恐ろしい存在になっていることが多い。
 いっぽう、人間と結婚して予言の力を授けたり、願いごとをかなえてくれたりする話もたくさんある。
 ニースディルに伝わっている話がある。

 肺病で娘が死にかけ、その恋人が海辺で泣いていたところ、
「野に咲くヨモギを見もせずに、あなたは乙女を死なせるの」
 と歌う声が聞こえてきた。
 さっそく恋人が娘にヨモギの汁を飲ませたところ、すぐ元気になった。

 この伝説からすれば、マーメイドは薬草の知識も豊富にもっていたことになる。
 スイスのヌシャテール湖近くの寺院で、洗礼盤のまわりにマーメイドがたくさん彫刻されているのを見て驚いたことがある。スイスには海がなく、湖は真水だからだ。しかし「マーメイドは洗礼の水と子どもを守る母性の象徴だから、淡水にもいるのだ」とスイスの友人は言った。
 マーメイドについて記したもっとも古い文献は『アイルランド王国年代記』で、紀元八八七年ごろ浜辺に打ちあげられたマーメイドは、測ると身長は四十八メートル、髪の毛が五メートル、指の長さが二メートルと書かれている。この巨大な姿は、月夜に海岸の岩に腰かけて、髪をとく美しい姿とはほど遠い。


『ケルトの妖精』 あんず堂


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