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渾斎随筆 №56 [文芸美術の森]

朝河貫一と私 1                                  
    - 木村毅君に答へる ー

                 歌人  会津八一

 木村君の「夕閑帖」は、私も読者たちとともに毎回愛讀して、いつもながら君の博識と能文に敬服した。けれども、おしまひにおまけとして朝河さんのことになり、これも興味ふかく讀むうちに、いつのまにか私が何かご返答をしなければならぬことになった。筆不精の私としては一大事で、大あわてであるが、正直にいへば、このあひだ朝河さんが亡くなられたといふ電報を新聞で見た時に、何か少し書いて見やうかと思ったりしたくらゐだから、この場合に、うまうまと木村君の計略に乗って、ちょっぴり書くことにする。いづれもつと書き足すことがあるかもしれない。
 私が朝河さんに會ったのは、たしか明治三十六年の秋が初めてのやうだ。その年の九月に、私たちは早稲田の高等豫科から文學科の一年に進んだ。大學といふものは、學んでみても教へてみても、わづか三年の間に何ほどの成績のあがるものではないが、その頃のわれわれは割合に神妙な心がけで、新しい教科書に、ノートブックに削りたての鉛筆を二本も三本も揃へて、かなり眞劒な顔をして教場へ通ったものだ。時間表の中に村上専精さんの仏教史があって、後に本願寺法廳に封するルーテルの宣言のやうに評判されたこの人の「佛数統一諭」は、あのまま教場でわれわれに講義されたものであった。その講義の時に、いつもわれわれの教場へ来て一しょに講義を聞いて帰る一人の若い紳士で、われわれより五つ六つ年上らしいのがあった。私は何の講義でもたいてい教場の一番うしろに居たが、その人は、いつも私の隣へ来て、まじめにノートを取ってゐた。この人は図書館でもよく見かけた、物静かで無口で私は一度でもこの人が人と話してゐるのを見たことがなかった。だんだん人の噂で、これがわれわれの先輩で、今はエール大學の助教授をしてゐる朝河といふ人で、あちらから逆に日本へ研究に来てゐるのだといふことがわかって釆たので、同じティブルで一しょにノートを取りながらも、いくらか力強い気持ちがしたものだ。

 この人の姿が再び早稲田に現はれたのは三十九年のやうに覺えてゐる。こんどは教場では見かけなかったが、ときどき図書館に近い校庭で行きあふことがあった。私はこの年の七月に文學科を卒業して、すぐ新潟へ帰った。すると幾日も経たぬうちに坪内先生が特に私に遇ってくれられるといふので、まだ幾日もたたない故郷からまた東京へ出た。
 その頃ある日牛込余丁町の坪内先生のもとのおやしきで文學科出身者の會合があった。會合といっても今日は先生のご招待で廣いお庭には萩がたくさん植ゑてあって、ところどころに桔梗などが咲いており、その中で簡単な園遊會で、ささやかな模擬店があり、ビールのご馳走であった。そして先生の養女のくに子さんの藤娘と、甥の大蔵さんの何かの踊りなどを拝見したりした。(この項つづく)
                  『夕刊ニイガタ』昭和二十四年九月四臼


『会津八一全集』 中央公論社

                                    

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