SSブログ

過激な隠遁~高島野十郎評伝 №27 [文芸美術の森]

第五章 増尾のアトリエで

         早稲田大学名誉教授  川崎 浹

女性と野十郎 2

 この女性が旧制八高時代の親友の娘K子さんだったのかは確かめようがない。野十郎はK子さんと文通していたが、彼女の気遣いに対しても、敏感な反応を示している。
 「お葉書の趣では、小生のためにズボン下を考えて下さっているようですが、そういう事一切ご無用に御願い致したく。実は小生、人様から衣食住の一切受けたがりません。特に女性の贈り物は受けない事にしています。無理に置いて行く人もありますが、どこかに押し入れて、一生どんなに困ろうと手をふれないか、又は他人無縁の人にやってしまうか、時には焼きすて川に流したり村のゴミ潜にすてたり、土を掘って埋めたりするのです。これはだれにもわからないように。
 又絵はがきを用意して下さっているらしいですが、それも無用です。何にもなりません。小生の芸術研究のためと思し召すご親切かと存じますが、小生の研究はただ自然あるのみで、古今東西の芸術家の後を追いそれらの作品を研究参考するのではありませんし、反対にそれらと絶縁して全くの孤独を求めているのですから、例えば名画の参考品を送って下さっても何の役にも立ちません」。
 この手紙はよく引き合いに出される資料のひとつだが、これを受けとった野十郎はすでに七十七歳、とっくの昔に欧州のあらゆる美術館を訪れており、すでにひとつの境地に立っていた。それは画家の絵を見ればおのずとわかることなのに、無名の画家が小さな貝殻のふたを閉ざして生きているかのように思った人びとの善意ある誤解だった。
 ゆるやかな遁世生活は自分で形を造らねばならぬので、伝統的に形が決まった寺院での修行より難しい。画家は俗界との間に目に見えぬ綱を張り、境界を自在に往来するのだが、綱を張る中心にはストイシズムや「物のけじめ」というものがある。他人からの同情をきらう人も少なからずいるだろうが、野十郎のばあい、それが女性からのものとなると、禅堂での接心中に女性から差し入れされたような気持ちになったのだろう。

 増尾のアトリエで印象に残ったことがある。当時ボランティアの民生委員がひとり暮らしの高齢者を定期的に巡回訪問していて、私もその人と顔を合わせたことがあった。この制度は六〇年代に数年実施されてのち廃止された。ある日、高島さんが私をつれてアトリエに戻ると、民生委員の書き置きがあって、菓子折を差し入れたとある。
 当時の民家の便所には屈んで用をたす足もとに臭気抜きの小さな開き戸があった。民生委員が主人の留守を知り、気を利かせたつもりで、菓子折を開き戸から便所に押しこんで行ったらしい。
 私の世代は焼け跡派とか戦後派(アプレ・ゲール)と呼ばれ、あるものはなんでも食べるという感覚で育ち、便所と菓子折の隠喩的な並置(まったくかみ合わない二つの単語を結びつけて効果をあらわす詩的語法。たとえば「茨の冠」)にさしたる違和感も覚えなかった。しかし高島さんは「失礼な!」とだけ言って菓子折には手をふれなかった。人は笑うだろうが、私はこのとき初めて「物のけじめ」という美意識もあることを、明治人の画家から教わった気がした。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。