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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №26 [文芸美術の森]

第五章 増尾のアトリエで

         早稲田大学名誉教授  川崎 浹

女性と野十郎 1                                                   

 野十郎は人物像として恩師の肖像と自画像以外に描いていないと思われているが、青山のアトリエには、華やかな着物姿の娘の肖像がかけられていた。日本画のように平面的で、着物の色柄や髪型、体つきから見て十代半ばの年頃ではなかろうか。瓜実顔の楕円は舞台化粧のように真っ白である。顔にはいつまでも目鼻立ちが描きこまれず、白いまま残されていた。知人の娘さんだったと私は記憶しているが…。
 増尾でも伊藤武氏に頼まれそ夫妻の肖像画を描いているそうだ。またアトリエには女性像がかけられていた時期があり、あまりに魅力的なので伊藤氏が譲ってくださいと頼んだら断られたとか。かつての恋人の像だろうと推察する人もいる。学生時代に一人の娘を三人で争うことになり、三人とも身を引いたとある。
 後に千葉県の土地やアトリエを検分するため高島さんに同行したときのこと。房総の市川市のあたりに残る故事として、画家が話してくれた。若くて美しい娘、真聞手古奈(ままのてこな)がふたりの男を惑わせたことに罪を感じ(一説では大勢の男とある)、入水したという。手古奈を哀れに思う山部赤人や高橋虫麻呂の歌が万葉集にあり、弘法寺には手古奈霊堂が建立されている。
 その口調からすると、高島さんは万葉の詩人たちと同じように真聞手古奈への思い入れがつよかった。当時私はこれも高島さんの理想の女性像かと思ったが、いま手古奈物語に、娘を争った野十郎たち学生の話を重ねると、男の側と女の側のどちらが犠牲になるにしろ、ジグソーパズルのようにぴったりはまる部分が見えてくる。それにしても万葉の詩人がとりあげるほどの故事だから相当に昔の娘だったわけだ。しかし画家は真聞手古奈を
目の前に見るような視力をもっていたのかもしれない。

 高島さんは女性たちに親切にしてもらうのを嫌った。
 奥秩父に絵を描きに行ったときのことである。渓流を数日間も凝視しているうちに水が止まって、岩場が流れはじめた。それを形に移そうとする。そんな日々の夜な夜な、宿の女将さんが蚊帳のなかに入るようにして「お暑いでしょう」と団扇であおいでくれた。だが高島さんは「知らん顔をしていた」と私に言った。こんなことまで記録に残すべきかとまどうが、好奇心をもつ人もいるので敢えて記した。懇ろにしていたのでは、渓流のあの
清例の気は出てこなかっただろう。
 しかし、こういうこともあった。短歌愛好者の若い女性が一日増尾のアトリエに長居した。ひなびた住まいや老画家のたたずまいに安らぎを兄いだしたのだろう。高島さんはおもしろい生き物でも見つけたかのように、後日私に報告した。「いちーんち、だまーつて、坐って帰っていったよ」。画家がたのしそうに笑うと両頬がふっくらとホホヅキのように薄赤みをおびるのだった。

『過激な隠遁』 求龍社

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