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多摩のむかし道と伝説の旅 №39 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

野火止用水水辺の道 6

                    原田環爾

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 金鳳山平林寺は臨済宗妙心寺派の禅寺だ。松平伊豆守信綱を始め松平家代々の菩提寺である。元は野火止ではなく埼玉県金重村(岩槻市)に永和元年(1375)太田道灌の父道真により建てられたが、天正18年(1590)戦火で焼失し家康の計らいで再建した。信綱は野火止の地に移すことを望んだが果たせず、その子甲斐守輝綱が移した。建設当時は6万坪あったと言われる敷地も今は約半分の3万坪になっている。それでも寺内には広大な武蔵野の雑木林があり、かつての野火止の原風景を今に留めている。野火止用水開削に精魂傾けた安松金右衛門の墓石も、内藤新宿の大宗寺からここに移され静かに眠っている。ところで松平伊豆守信綱は慶長元年(1596)羽生領(埼玉県羽生市)の代官大河内金兵衛久綱の子として出生。慶長9年(1604)竹千代(後の家光)付き小姓となった。24歳の時、大河内松平を名乗り名を信綱と改める。寛永9年(1632)老中並みの六人衆に任ぜられ幕政に参加。寛永10年(1633)3万石の忍城(埼玉県行田市)城主となった。38-3.jpg寛永15年(1638)島原の乱に出陣し、ここで安松金右衛門を知ることになる。寛永16年(1639)島原の乱の功績で6万石の川越城主に移封される。正保元年(1644)安松金右衛門を家臣として取立てる。承応2年(1653)四代将軍家綱のもと総奉行となり、玉川上水開削の総責任者となると、承応4年(1655)安松金右衛門に命じて野火止用水を開削させた。寛文2年(1662)死去している。
 野火止塚は九十九塚(ツクモヅカ)ともいう。野焼きの火が住家に飛び火しないよう見張る見張台であったという。文明18年(1486)道興准后はこの地を訪れ、廻国雑記の中で「野火留の塚と言える塚あり」と記している。
38-3.jpg38-3-2.jpg 在原業平塚は伊勢物語の作者在原業平が京より東下りした折、駒を止めて休んだ所と伝える。塚は野火止塚と思われる。業平は色好みで恋愛騒動がもとで京から東国へ追放された。ところが野火止で郡司の娘「青前」と恋仲となり郡司の怒りをかう。二人で逃げだしたが、草原で火をかけられ、野火止塚で身を隠すも捕えられる云々・・・。
 平林寺を後にして野火止用水本流に向かうことにする。先の陣屋通りを北に進むと再び用水本流に架かる伊豆殿橋に出る。伊豆38-4.jpg守を崇敬する農民達によって付けられた名という。ここから平林寺の裏通りに入る。この裏通りは野火止用水緑道といい、平林寺の雑木林と用水と田園風景が続く素晴らしい小径になっている。緑道が終わりこもれび通りを渡り野火止公園まで来ると新座バイパス国道254号に出る。ここで用水は完全に暗渠となり本コースは終わる。帰路は国道沿いに500mも進めばJR武蔵野線の新座駅に至る。


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