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雑記帳2020-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-4-1
◆片倉城址公園から御殿峠へ。この時期、鎌倉古道は花巡りの旅でした。

多摩地域を通る鎌倉海道上道は鎌倉~町田~府中~東村山~所沢~比企丘陵~群馬方面を結ぶルートです。今回は「八王子道」と呼ばれ道筋を歩きました。この辺りはかって鎌倉街道の脇往還と考えられていましたが、最近の研究で、ごく初期(平和時代ころ)に開拓された古道であることがわかってきました。、周辺の開発が進む中、残された古道の面影をたどりました。

この地域は、もともと武蔵七党と呼ばれた、平安時代に武蔵国西部に勢力を持った土着の豪族の一つ、横山氏の勢力圏内でした。(武蔵七党はその後、鎌倉御家人となりました。)健保元年(1213)和田の乱で横山時兼は和田義盛に加担して討ち死に、大江広元がこの地を領しました。その後、大江氏の子孫は長井氏を名のるようになり、室町時代には、長井氏は関東管領の扇谷上杉氏の配下になっていました。
片倉城の築城はこのころ、15世紀後半のころと推定されています。扇谷上杉朝定によって再築された深大寺城と特徴がよく似ているといわれます。

扇谷上杉は山内上杉と争い、扇谷上杉方の長井八郎は山内上杉に捕縛されたと記録にあります。その後、長井家はどうなったかは不明ですが、天文15年(1546)の河越合戦以来、武蔵国は北条氏の支配下にあって、滝山・八王子の支城として、相模方面へのつなぎの役割をもたされていたようです。

その片倉城は、八王子盆地の南小比企丘陵の東端の台地に築かれました。JR片倉駅に降り立てば、左手に見える小高い丘がそうです。

片倉駅から片倉城址を臨む のコピー.jpg
片倉駅から城のあった山を望む

北に湯殿川、南に兵衛川が流れ、二つの川は天然の外堀です。麓には鎌倉街道(川越道)が南北に通る交通の要衝。片倉城は八王子と横浜、小田原を結ぶ要の城だったことがよくわかります。標高は139m。

駅から数分の湯殿川は3月末、今まさに満開の桜です。

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湯殿川の桜

片倉城址公園入口の広場には北村西望の胸像がたっています。長崎の平和の像で有名な西望のアトリエは三鷹にありましたが、八王子市の彫刻の街づくりに賛同して審査委員を引き受けました。公園には受賞した作品が飾られているのです。

一方、公園には多くの野生植物が自生していて、恰好の自然観察の場にもなっています。ニリンソウやバイモ、ヤマドリソウに交じって、今の季節は、城の名前の由来になった野生のカタクリの花が見ごろです。片倉沢を抜けていくと、城郭の斜面一面にカタクリが乱舞しています。(カタクリの古語はカタカゴなので、片倉城の名の由来説は、本当のところはさだかではありません。)
カタクリは冬、陽があたり、夏は日陰の場所でないと生えません。常緑樹の森ではだめなのです。戦国の時代、カタクリは食用だったと思われます。食料になる前の可憐な花を武士たちも見ていたのかと思うと面白いとりあわせですね。

ニリンソウ2 のコピー.jpg
ニリンソウ
バイモ のコピー.jpg
バイモ
ヤマドリソウ のコピー.jpg
ヤマドリソウ
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斜面一面のカタクリ

標高139mは登ってみれば結構な高さです。一気に登れば、冬の間の運動不足がたたって、息は切れるし、足腰だってよれよれです。

北の出丸から見下ろす のコピー.jpg
北の丸からかっての城下を見下ろす

二の丸には末吉神社がまつられています。
説明板には神社は摂津国の末吉大社を勧請したとありますが、急坂の地形では参道を作った様子もみられず、なぜここに末吉神社があるのかは不明です。

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二の丸の末吉神社

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本丸も桜が満開

西の丸と本丸をつなぐ橋の下は空堀でした。
石段にキランソウを見つけました。「地獄の釜のふた」の別名を持つこの花は、日当たりの良い斜面によくみられますが、名前からして石の間からのぞいているのがぴったりです。

キランソウ(地獄の哉のふた) のコピー.jpg
キランソウ(地獄の釜の蓋)

本丸よりの広い西の丸から、遠く山並みをながめると、写真にはみえませんが、右手奥にはかって八王子城がありました。ここがのろし場だったとわかります。

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西の丸から下山の途中に見つけたのはヤマブキソウやアズマイチゲです。ヤマブキソウは絶滅危惧種になっています。花弁の色は普通は白なのに、これは珍しい紅紫色のアズマイチゲです。

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ヤマブキソウ
アズマイチゲ のコピー.jpg
アズマイチゲ

城の傍にある松門寺は延徳元年(1489)に創設された古刹です。当初は密教の寺でしたが、慶長元年(1596)に禅宗に改宗しました。昭和44年(1969)に現在の地に移転しましたが、約400年にわたる長い歴史を感じさせる、落ち着いたたたずまいです。本堂の左右に見事な木瓜が植えられていました。
多摩や八王子は開発のために移転したり合祀した寺社が数多くありますが、松門寺もその一つ。移転には寺だけでなく、墓を動かさなければならなかった檀家にも負担を強いたようです。
松門寺 のコピー.jpg
松門寺

寺と城の間にある、短い距離ですが、古道がそのまま残っている道をあるきました。今では通る人もなく、草の生い茂った道は、昔の旅人気分を味わうに十分でした。

その後は畑の中を道を歩き、林の中を辿りながら目指すは5キロ先の御殿峠(ごてんとうげ)です。

鎌倉古道 のコピー.jpg
鎌倉古道2 のコピー.jpg

キジムシロやエゾタンポポなど、道々、多くの草花にであいながらたどり着いた御殿峠は、八王子市片倉町と町田市相原町の境に位置する国道16号の峠です。御殿山の東稜を切り開いて開通した新道は現在の自動車交通の要衝です。標高183mの峠に立てば、眼下に、ランドマークにもなる東京工科大学のキャンパスが見下ろせます。

キジムシロ のコピー.jpg
キジムシロ(雉の寝床になると思われたからという)
エゾタンポポ のコピー.jpg
エゾタンポポ
御殿峠より のコピー.jpg
御殿峠より見下ろす

その御殿山は実は私有地。持ち主のホテル日本閣で遅い昼食をいただきました。

開発で途切れた部分もありましたが、片倉城址からここまで、鎌倉街道の跡である古道は残されていました。
古代、すでにこの道は須恵器窯の工人たちが行きかう道でした。鎌倉時代は関東武士団が駆け抜け、戦国時代には武田信玄の2万人もの大軍勢が通りました。更に江戸時代から明治にかけては、横浜へ生糸を運ぶ道にもなったのです。横浜線が開通するまでこの道は神奈川道・八王子道として、人と物資の交流を支えたのでした。

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