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対話随想余滴 №34 [核無き世界をめざして]

   余滴34  中山士朗から関千枝子様

                作家  中山士朗

 私の入浴について貴重なご意見を頂きありがとうございました。世間では、風呂に入りたがらない年寄りは呆けの始まりと言うようですが、あるいはこの類ではないかと内心恐れを抱いております。
 とりわけ「一人暮らしになったのが運命と、思うしかないのではないでしょうか」この言葉は身にこたえました。
 なぜならば、関さんにもお読みいただいたと思いますが、私が小説を書き始めた頃の作品の中に、「浸蝕」という私小説風に綴った短編があり、被爆の後遺症を恐れ、子どもをもうけない夫婦の話を書いたことがあります。このことが、関さんの言われる「運命」かもしれないと思いました。その一方で、関さんの言われる「孤独が嫌なら一人暮らしを止め施設に入るしかありませんが、私は、一人暮らしの方が気楽でいいと思っています。一人で暮らせる限り一人で暮らしたいと思います」という思考には同感です。しかし、私には子どもがいないので、相談する相手もいないのですから、月に一度、独居高齢者の家を訪問してくださる民生委員の方と、これからはよく連絡が取れるようにしたいと思っております。
 私たちの往復書簡において、このところ倒壊の恐れがあるため解体を検討されている広島被服廠の建物について記述が続いておりますが、この建物について、峠三吉の原爆詩集に関さんが触れておられましたので、その詩集を書庫から探してみました。一九五二年五月十日に,青木書店発行の青木文庫として発行された『原爆詩集』は、当時は紙質も悪かったせいか、表紙も中のページも茶渋色に染まっていました。巻末になかの・しげはるの「解説として」という文章がありました。一九五二年と言えば、私も関さんもまだ早稲田大学文学部露文科に在籍していた頃ですから、六十八年昔のことですね。
 中野重治は解説の中で、
<峠三吉は、これらの詩をむしろ静かな態度で書いた。またそれをつつましい形で世に出した。広島の荒廃、多くの人の肉体的苦痛と餓えのなかから芽ぐんできた芸術と文学とへの民衆的要求、そこから生まれた「われらの詩の会」の仕事を組織しながら、彼がこれらの詩を書き、平和擁護の仕事の力ぞえするため、また、一九五一年八月の広島平和大会にささげようとして、彼は貧しいガリ版ずり本としてこれを出したのである。>
と書いています。
扉に
―――― 一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在に至るまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ、と記し、詩集の「序」で、

  ちちをかえせ  ははをかえせ
 としよりをかえせ
 こどもをかえせ

 わたしをかえせ  わたしにつながる
 にんげんをかえせ

 にんげんの にんげんのよのあるかぎり
 くずれぬへいわを
 へいわをかえせ

と謳った峠三吉には、その直後に被爆した人間の姿が冒頭の「八月六日」の詩に書かれていました。

 やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
 両手を胸に
 くずれた脳漿を踏み
 焼け焦げた布を腰にまとって
  泣きながら群れ歩いた裸体の行列

 詩集は、やがて「倉庫の記録」へと移っていくのです。
 この倉庫というのは、現在、倒壊の恐れがあるということから一部解体するという旧陸軍被服支廠の建物です。
 峠三吉は、ここに六日間滞在し、記録を残していたのです。関さんは既にご存知のことですが、「その日」の項のみ抜粋してみました。

 いちめん蓮の葉が馬蹄型に焼けた蓮華の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。高い格子窓だけの薄暗いコンクリートの床。その上に軍用毛布を一枚敷いて、逃げてきた者たちが向うむきに横たわっている。みんなかろうじてズロースやモンペの切れはしを腰にまとった裸体。
 足のふみ場もなくころがっているのはおおかた疎開家屋の跡片付けに出ていた女学校の
下級生だが、顔から全身へかけての火傷や、赤チン、凝血、油薬、包帯などのために汚辱な変貌をして物乞いの老婆の群れのよう。
 窓際や太い柱の陰に桶や馬穴が汚物をいっぱい溜め、そこらに糞便を流し、骨を刺す異臭のなか(中略)
 灯のない倉庫は遠く燃えつづけるまちの響きを地につたわせ、衰えては高まる狂声を込めて夜の闇にのまれてゆく。

 中野重治が解説で。「峠三吉は、これらの詩をむしろ静かな態度で書いた。またそれをつつましい形で世に出した。」と書いた個所のところで、私は関さんの手紙にありました七年前に高校平和大使を務め、大学院生となった現在もブラジルのヒバクシャに興味を持ち、ブラジルに通いながら、話を聞いている女性のことを思い浮かべました。こうした若い人々がいて「継承」「核兵器廃絶の闘い」が引き継がれていくと関さんは語っておられますが、その通りだと思います。
 しかし、そのブラジルのサンパウロで二月下旬にあったカーニバルのパレ―ドにサンバチーム「アギア・ジ・オウロ」(金の鷲の意味)の山車が登場しましたが、これは原爆をモチーフにしたものでした。米軍の爆撃機B29を模した飛行機の下にキノコ雲が立ち上がり、後ろには炎に包まれる原爆ドームがあるという制作でした。テーマは.「知識の善悪}。原爆は「史上最悪の形で知識が使われた例」として扱われました。チームには広島や長崎にルーツを持つ日系人も参加したということでした、このコンテストで、チームは優勝しました。ブラジルの被爆者らでつくるブラジル被爆者平和協会は「原爆が人類史の一つの悲惨な出来事だととらえていた。優勝で、そのことが広く伝わった」と評価し、これを機に、語り部活動などを通じ、ブラジルの人にも被爆の実態をさらに伝えていきたいと語っていました。


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