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渾斎随筆 №53 [文芸美術の森]

壁畫問題の責任  2

                歌人  会津八一

 それからこれは同じ奈良でも正倉院のことになるが、ある年正倉院の曝涼といって即ち蟲干しの時に、私が奈良の宿屋にゐると、かねて神戸で一度あったことのある、あるドイツの技師の若い奥さんがだしぬけに一人で飛び込んで来て、大使館の世話でやうやく拝観の許可證が手に入ったのに、主人は都合によって急に歸國することになった。けれども自分は是非拝見したいので、主人の方は一船さきに昨日もう神戸から発ってしまったから、何分よろしくといふ。これには私もいささかあわてたものだ。その後この夫人もあちらへ歸ってから、夫婦でていねいな禮状をよこして、それに添へて一冊の畫集が来た。あちらのゴチック寺院の彫刻をあつめたもので、奈良のものと比較の資料までにといふことであった。
 それからこれは奈良のことではないが、私の大學にミスター・バッパーといふアメリカ人がゐた。有名な浮世繪研究家で賣買の仲介などもしてをり、ある角度からずゐぶん骨を折って勉強したものと見えて、日本人の間でも一方の権威として認められてゐた。この人が病気で亡くなった時に遺言をして、浅草にある一立斎廣重の墓の隣に自分の墓表をたてさせて、その石には 「ココニ廣重ノ一人ノ友ハ眠ル」と英語で刻ませたものだ。穏やかな好々爺のやうに見えたが、心の底にはかうした凛とした、いはば命がけの気持が流れてゐたことが思ほれてゆかしかった。
 これらは私の経験した實例の二三であるが、この中にもすぐれた美術品や作者に封して欧米の心ある人たちの持つところのまじめな心がけや眞劔な態度がよく窺はれる。この突きつめた気特や態度は、なかみも奥行もない、請け責りの趣味談などに目を迭ってひとかどの通人を気取って、得意げに見える人たちとは、格段のちがひである。歐米人の眞似がしたいならかういふところに一番によく気をつけて、しっかりと覚悟をきめてからにしてもらひたいものだ。             
 壁畫は焼けたればこそ口々に惜しまれるけれども、焼けでもしなければ、その存在は殆ど忘れられてゐた。その証拠には法隆寺でも何虚でも、国寳級の美術品は年来いづれも保存に因ってゐた。最近には経済上の逼迫から海外へ買ひ取られて行くものもあるといふ謡も珍しくない。もし国民がほんとによく自国の美術の妙味に心がひかれ、その價値を信じ、ほんとにその愛護に誠意を持つなら、その國民を代表する議會も、その議會から大臣を出して作る政府も、どんな窮乏の中からでも、筋の通った保存の方法を見つけ出してくれるはずだ。奈良の正月の寒さは私もよく知ってゐる。察するにこの寒い時節に、全く暖房の装置のない廣い金堂の中でしかもあまり豊かでもない俸給で、日夜に模寫の完成をせきたてられてゐた繪かきたちが、やうやう思ひついて足場の上の座布團の下に忍ばせておいた安ものの電熱器が、はからずこのまちがひの主因となったのかも知れない。もしそんなことなら、もちろんその不注意は許しがたいにしても、そのほかに、そこにわれわれ國民がもつと身近く、もつと痛切に、自分らの責任として、つくづく反省して、改めるところは改めなければならない。戦後の日本が文化的に世界へ進出するといふことは大變な仕事で、産れ變ったほどに心がけを變へてかからなければならない。青年は眞似ごとのダンスにふけるばかり、老人は茶気まんまんたる喉自慢などでいい気持になってゐるばかりで、その中から日本の文化が世界に躍進するといふことはあり得ることではない。これはむしろ亡國の兆候だ。
 壁畫はわれわれにとって、身に散るほど大切な寳であったがその貴さやありがたさを、國民がよく知らぬうちになくなってしまったのであるが、われわれの國に残されてゐる價値のある美術品は、決してこれだけではない。もしわれわれが、いつまでもこんな調子でうかうかしてゐるなら、これから後にもいくらもこんなまちがひが起ってくるにきまってゐる。しっかりと目を覚まして、心がけから改めてかからなければならない。

                 『新潟日報』昭和二十四年一月≡十一日


『会津八一全集』 中央公論社

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