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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №24 [文芸美術の森]

第五章 増尾のアトリエで 1

                早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「私にとっては天国だよ」 1

 高島さんはオリンピックの道路建設で立ち退きをせまられ、喜多見のアパートに仮住まいしながら、土地を探していたが、結局、東京都に隣接する千葉県内に落ちついた。上野方面から常磐線で柏駅まで行き、野田線に乗りかえて二つ目が増尾駅である。いまでは通勤圏内の駅として一日の利用客が一万数千人もいるが、当時は駅そのものが番小屋のように小さく、のんびりしていた。駅から出ると現在の商店や宅地街からは想像もできない鄙びた風景がひらけていた。
 探しはじめの頃、野十郎が一日中ひとりで野原にすわって観察していると、「一日に農民がたったふたり通った」。周囲は野畑と森と草むらだけで、家一軒見当たらない。かれはこの辺が湧き水の多い湿潤地で井戸を少し掘れば良質の水がでることも知った。歴史学者や環境学者のような目で土地を調べたうえで、ある日増尾駅に立つと、たまたま若い婦人がそばにいたので、かれは声をかけた。婦人は相手が信頼できそうな高齢の紳士だった
ので、自宅につれてゆき、夫の伊藤武と相談にのった。伊藤氏は空き地の場所を知っていたので、地主を紹介し、画家はその土地を借りることにした。
 「西本年譜」によると昭和三十五年(一九六〇)九月中旬、野十郎は移転をきめ、さっそくアトリエの建築を大工に依頼して十月三十一日に家屋が完成する。しかし、アトリエの機能もよく知らない大工が仮小屋でも建てるつもりで仕事をしたらしく、画家の意図にそう家屋ができなかった。かれは自分で改造工事にたずさわり、十一月二十七日にやっと入居した。これまでは都会のなかの借家で造作もしっかりしていたが、田舎でアトリエを
建てるのは大変だと画家は思い知った。それでも以前久留米の屋敷の隅にアトリエを設け、また戦災後しばらく姉スエノの屋敷で小屋住まいをしていた経験があってこそ、自分で補修工事もできたのだろう。それも古稀を過ぎた並みのひとにはできない真似である。
 翌年の四月二日に高島さんが来宅してアトリエ建築のいきさつを話してくれた。写真の現像焼きつけをする暗室とトイレを同じ場所に収めたり、絵を土壌から守るために窓や戸口の隙間を詰めたりしなければならないのに、建築がうまく仕上がらず、高島さんもかなり苦労していた。私も日誌に「地主との話がうまくいかない。建築の件ですっかり痛めつけられた。登記をするにも、地主と大工の印鑑をもらうのが大変らしい」と画家の立場で記しているが、「年譜」によると四月十六日にアトリエが完成している。つまり拙宅に見えたときはまだ印鑑の件で一件落着というわけではなかったのだ。(このつづく)


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社

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