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雑記帳2020-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-3-15
◆江戸城外堀を歩いて江戸のまちづくりを学ぶシリーズ、第1回目は水道橋から東京駅まで。

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江戸時代の全体図
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皇居を囲む現在の地図

江戸城外堀は、幕府が諸大名を動員して寛永13年(1636)に完成させた江戸城の外郭をなす水濠です。本来の目的は城の防御のためでしたが、内堀と外堀の間に武家屋敷をあつめ、町人の住まいや商店、寺地は外堀を境に区分するなど、江戸のまちづくりの基礎となりました。さらに、明治以降には鉄道と駅が、昭和には高速道路が外堀を利用して造られ、東京のまちづくりに大きな影響をあたえています。歩いてみれば、首都高速が外堀の真上を走っていることがよく分かります。
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日本橋川の真上を通る首都高速5号線(西神田川から 堀留橋はこの下にある)

東京千代田区と中央区を流れる日本橋川は、昔、平川と呼ばれた暴れ川でした。最初に治水に乗り出したのは太田道灌。日比谷入り江に注いでいた平川の流れを変えて江戸湾に流しました。その後、何度も水利工事は行われて今の日本橋川ができたのです。江戸時代初期、神田川開削の際に神田川からの分岐点より堀留橋までの区間が埋め立てられ、この付近が掘の終点になっていたことから、堀留橋は江戸城外堀の起点となっています。

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堀留橋から見おろす日本橋川

JR水道橋駅からほど近い堀留橋(別名「コオロギ橋」)を渡って、濠にそって九段下へ向かって歩きます。
右手に何本かの坂があり、そのうちの一つ、中坂通り一帯は、徳川家康が江戸入府のおり、この村の飯田喜兵衛が家康を案内したことから、村の名前を飯田町と称することが許されたといわれます。火事で町が築地に移転したあと、新たにできた町は元飯田町となりました。

別の坂に立つマンションは滝沢馬琴の住居跡に建てられています。馬琴の名を不動にした「南総里見八犬伝」はこの地で生まれました。馬琴の住居に水を引いていた水道が発見されています。

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馬琴住居の井戸の跡

靖国神社のある九段坂の名の由来は、坂沿いの武家屋敷に9段の石垣があったからとか、あるいは道に9段の段差が設けられていたからともいわれます。浮世絵にも荷を積んだ牛がこの坂を上る様子が描がかれていますが、九段坂はそれほどきつい坂だったのです。

九段下の濠には俎板橋がかかっています。近くに御台所町と飯田町があったことからしゃれで「まないた」と名付けられたと言われています。橋のたもとに福禄寿の像がおかれています。ハレー彗星で騒がれた年に作られた、鍛金作家・山下恒雄の作品。この人のもう一体の作品が神田橋にもあります。

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俎板橋の福禄寿像
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神田橋の黄金虫像

内堀と外堀の間にある武家屋敷に交じって、幕府公用の御用屋敷がありました。千代田区役所はその御用屋敷跡に建っています。
区役所正面には清水門。寛永元年(1626)に石垣が築かれた門です。国指定の重要文化財。この門の内側に御三家の一つ清水徳川家の邸がありました。

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清水門

清水門の東にあるのは雉子橋門です。
雉子橋の名の由来は、近くに朝鮮使節をもてなすのために雉子を飼う小屋があったからと言われています。ここは早稲田に移る前の大隈重信も住んでいました。
橋にたてば、内堀と外堀が同時に目に入る、雉子橋門は両方の堀を結ぶ堀にもうけられた門なのです。現在は内堀と外堀を結ぶ堀はなくなっていますが、トンネル状の水路によって、水はつながっています。

内堀は江戸城の主要部分を守るための堀です。外堀は自由に通行できましたが、内堀は幕府の許可をえたものしか通ることができませんでした。
このあたりで内堀にかかるのは北の丸公園にわたる竹橋、つづいて平川橋です。
木製の美しい橋と高麗門、櫓門、これらを総して平川門と呼ばれ、当時は江戸城三の丸の正門で、徳川 御三卿の田安・一橋・清水の各徳川家の登城口でした。

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美しい木製の平川橋 擬宝珠のもご注目

検問をうけて櫓門をくぐると、右手の石垣の最上段に石狭間(石に穴を空けて銃眼としたもの)が見えます。慶長18年(1613)、築城の名手・藤堂高虎が石垣普請を命じられたとき、考案したと伝えられる江戸城の貴重な遺構です。高麗門の立派な石垣はみごたえがあります。
平川門はまた、江戸城の鬼門にあたることから、不浄門としてもつかわれ、罪人や死人はこの門から運び出されました。

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櫓門
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高麗門

平川橋の正面に建つのは毎日新聞社の社屋です。ここには江戸場内で消費される米を脱穀していた「御舂(おつき)屋」がありました。

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               平川橋正面の毎日新聞社社屋

御舂屋の外堀側にあるのは一ツ橋門。雉子橋からこのあたりまで堀の随所に江戸時代の石垣が残っています。一ツ橋周辺には昭和に修理した石垣もあって、面白い対比が見られます。
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雉子橋の石垣(石は江戸時代のものだが、積み方がどうやら後世のものらしい)
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一ツ橋の石垣

御三卿は徳川将軍の跡継ぎが絶えたときに次ぎの将軍を出す家柄。御三卿の一つである一ツ橋家は11代家斉と15代慶喜の2人の将軍を出しました。一ツ橋家屋敷の跡には丸紅をはじめ多くの企業のビルがならびます。
堀に沿ってさらに進めば神田橋。橋の近くに神田橋門の鏡台の石垣が残っています。

江戸城内堀の正面である大手門の前にあるのが大手町です。
江戸時代には徳川将軍家の重心や幕府の重職についている大名の屋敷が並んでいました。明治以降は新政府の役所や軍の用地となり、昭和・平成の館長移転によって現在は大企業のオフィスビルが並ぶ街になっています。

神田川沿いの公開空地の一部に、かっての外堀だった場所が開発されておしゃれな町が出現しています。大手町フィナンシャルシティです。遊歩道には外堀の石垣の石や発掘された石を見ることができます。

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おしゃれな大手町フィナンシャルシティ
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発掘された石垣の石が遊歩道随所に展示されている
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ビルにある駐輪場もおしゃれ

鎌倉橋は、関東大震災後の復興事業の一環として、昭和4年(1929)にかけられました。第二次大戦中のアメリカ軍機による機銃掃射の痕が残っています。

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鎌倉橋の空襲の弾痕跡

鎌倉橋の名は近くに鎌倉河岸があったことによるものです。徳川家康による江戸城築城のおり、鎌倉から取り寄せた石をここで荷揚げしたとか、鎌倉から来た商人がここに店を構えて荷揚げした物品を売買していたとかの説があります。江戸時代以降も昭和にいたるまで荷上場として活用されていました。

鎌倉橋をすすむと常盤橋です。外堀の正門だった常盤橋の向かいには日本銀行。江戸時代の金貨製青蔵書である金座と江戸の町方年寄の奈良屋市右衛門の邸跡地に建てられています。明治29年築の、辰野金吾の設計による庁舎は国の重要文化財になっています。

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常盤橋の次は一石橋。金座支配の後藤家と幕府御用達呉服商後藤家の間にあったことから「後藤(5斗)と後藤(5斗)で一石橋だ」という説があります。ここからは日本橋が目の前です。橋の南摘め荷は迷子しるべの石標があります。

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一石橋の迷子の石標

一石橋から南の外堀は、第2時大戦の空襲による瓦礫を処分するために埋めたてられてしまいました。なので、ここからは、道三堀跡、呉服橋門跡など名前だけが残る外堀通りを東京駅まで歩くことになります。

東京駅付近にはかって北町奉行所がおかれていました。現在、奉行所跡は丸の内トラストタワーの敷地内にあり、外堀の石垣石と復元された下水道の石組みが見られます。一方、奉行所跡の説明板は何度も引っ越しをして、いま、東京駅大丸前にあります。

東京駅の東口を八重洲口といいます。その名の由来は、慶長5年(1600)に日本にやってきたオランダ人ヤン・ヨーステンの屋敷があったことにあります。1回目の外堀歩きはここまで。2回目はここから出発します。

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