SSブログ

澁澤栄一と女学館 №1 [雑木林の四季]

  渋沢栄一と東京女学館のこと 1

           エッセイスト  関 千枝子

 来年の大河ドラマが渋沢栄一なのはとてもうれしい。渋沢栄一はもちろん近代日本の資本主義の基礎を築いた人だが、それだけでなく、広い見識を持ち、さまざまな活動をした人である。「ドラマになる」人とかねて思っていたので、ようやく大河の順番が来たかと思っているが、その経済面への貢献だけが言われ、ほかの面が忘れられては困ると思う。殊に女子教育については若いときから熱心で、渋沢の最後の仕事は東京女学館の館長で、館長の現職で死没した。渋沢栄一の女子教育への情熱、功績が忘れられてはいけないと思い、渋沢栄一財団の機関誌「青淵」に投書などしてみたのだが。大河ドラマの作者が渋沢の女子教育への熱意をドラマに生かしてくださるだろうか。ちょっと心配でもある。

 私は、東京女学館の初等科の卒業生である。十回生、昭和十三年入学のクラスだ。渋沢栄一さんは、女学館の五代目館長で、昭和四年小学部(初等科)が開校された時の館長でもある。渋沢さんは昭和十一年に亡くなっているので、私たちの学年は、もちろんお顔も知らない。そのためでもないが、女学館というところは面白い学校で、こんな偉い方が館長でいらしたなど、一言も教えない学校だった。そこが女学館らしいというか、渋沢精神?かとも思うが、そんなわけで、私など、在校時もその後も、渋沢栄一と女学館の関係など全く知らなかった。

 東京女学館は不思議な学校で私が初等科にいた頃、戦争はだんだんひどくなり、四年生の時米英との戦争(太平洋戦争)が始まる。この年、小学校は国民学校になり、授業も日ごとに殺伐になっていくのだが、女学館は「女学館初等科」であり続けた。私の初等科の卒業証書にも、女学館初等科と書いてあり国民学校ではない。
あの時代としてはのんびりしており、奉安殿もなかったし、教練、修練、武道といった科目もなかった。中等科の方は、のどかに敵性スポーツと言われたバレーボールやテニスを楽しんでいた。中等科で東京を離れ地方都市の普通の県立女学校に入った私は、武道など習ったこともないので薙刀ができなくて困ったものである。こんな校風だったのを今にして思えば「渋沢精神」などと思ってしまうのも私の思いすぎだろうか。

 私が渋沢栄一さんの最後のお仕事が、女学館の館長だったことを知ったのは、一九八〇年代も末のころである。一九八五年、私は広島の女学校の同級生が作業中、原爆に遭い全滅したことをドキュメンタリーに書いた(「広島第二県女二年西組」筑摩書房)。それを読んだ「青淵」の編集者の方からお誘いがあり、時々「青淵」に文章を書かせて頂けることになった。もちろん私は渋沢栄一の名前や数々の経済の業績は知っていた。そしてあれだけ多くの会社を作りながら軌道に乗ると身を引き、「財閥」を作らなかったこと。清廉な実業家であることは知っていたので、「青淵」に書かせていただくのはうれしかった。
 しかし、女学館とのかかわりは全く考えもしなかった。 ある時「青淵」の編集者の方から、渋沢栄一が女学館の館長であり、それが最後のお仕事だったことを聞いて驚いたのである。
 私は父の仕事の関係で大阪に生まれ、小学校二年生のとき、父の本社転勤に伴い、東京に来た。母は、なるべく子どもに受験勉強など余計な苦労はさせたくないという考えだったので、女学校にそのままはいれる私立の学校に入れたいと思った。上司の夫人が三つほど私立小学校を紹介してくださり、その中で選んだのが女学館だった。こんな話をすると、「あなたのお母さまは大した方ね、渋沢さんが館長をした学校を選んだのだから」という方があるが、とんでもない、母も渋沢さんのことなど全く知らなかったと思う。女学館に行ってみて、冬でも白いセーラー服で、広い校庭で遊ぶ生徒たちを見て、とてもきれいで明るいと思い、気に入ったというのが事の真相である。
 今でも女学館の白のセーラー服は人気で「制服で生徒を呼ぶ」学校らしいが、昔から女学館の生徒は制服のおかげでひどく目だった。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。