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渾斎随筆 №52 [文芸美術の森]

壁畫問題の責任 1  

                歌人  会津八一                          

 法隆寺の金堂から火事が出て壁畫が減茶々々になったといふのは日本としても世界としても、ほんとに取返しのつかない災難であった。よく日本を美術國だといふが、人のからだにたとへるなら、そのからだのなかで奈良地方はあたまともいふべきところで、そのあたまの中でも法隆寺の塔と金堂とは左右の二つの眼の玉ほどに大切なものだ。といふのは、この二つは、それ自體が建築として最も古くまた美しいものであるばかりでなく、その中には、古くて美しい彫刻や繪畫の名品が、数へつくせぬほどたくさんあったからだ。そのたくさんのものを、今ではすっかり寺内の寳蔵へ移して、建物は修理のさいちゆうであったが、壁に描いた繪だけは取り外しが出来ないのでそのままにしておいて、そこへたくさんの繪かきたちが入って足場をかけたりなどして模寫を急いでゐた。そのうちに、その人たちのあやまちから火事になったのだといふ。私などは、若い頃からこの寺へ出入りして調べものをしたり、時にはまた歌を詠んだりなどして、一生の大半を迭つたともいへる。それだけに何ともいひやうのない気特だ。
 この二三日は、どこへ行つても、その談ばかりで、誰も彼もが惜しかった惜しかつたといひ合ってゐるが、こんな場合に、何も皮肉をいったりするのではないが、この中で、ほんとに惜しかったと思ってゐる人が實はどれほどあるのであらうか。一般の人たちは、小學校でも中學校でも、その名を教へられてゐる寺のことであるし、何うかすると世界の寳だ、日本の誇だと講演や書物などで聞かされてゐるし、急にそれがなくなったのであるから、いかにも残念だといふぐらゐのことかも知れない。しかしそれだけのことなら、それは一應の理屈といふもので、その間にしみじみとした實感が少しも籠つてゐない。あれほど好きで好きでたまらなかったものが急になくなって、ほんとに泣くに泣かれないほどにくやしい。それにつけても二度とこんなまちがひを起したくない。といふのでないとこんな場合にぴったりしない。大多数の國民にとって、ほんとに切っても切れぬほどの愛着が持たれてゐないものを、ただ口さきだけで、殊勝らしいことをいひ合ってゐるのなら、小賢しく常識的な物言ひをするといふだけでただそれだけではほんとにつまらぬことだ。つまらぬといふよりはむしろ悪いことだ。戦後の日本は、これからひたすら文化的精進しなければならぬなどと、口さきだけで唱へながら、腹の中では少しも質感のない常識的損得勘定のほかには何もないのならこれはほんとに悪いことだ。
 早い頃フランスにガストン・マスベロといふ人があった。埃及考古學の大家であった。この人の子のアンリ・マスベロといふ人は、これも東洋學者であるが、専門は支那學で、日本のことも勉強してゐた。この人が十幾年も前に、日佛會館の館長として夫婦で日本へ来てゐた。この夫婦が少し奈良の美術を見學したいといふので、私の門人の一人が案内役として法隆寺へ行ったことがある。すると案内役があとで帰って来ての談にその熱心ぶりは実に驚いたもので、あの金堂の中にある澤山の佛像の中で、ただ釋迦如来と薬師如来の二體だけを見くらべるのに、二時間あまりもかかって、この二つの彿像の間を夫婦で何十ペんとなく行ったり来たりして少しも飽きるけしきもなかった。あの調子でやって行けば金堂の中でも三四ケ月もかかるでせう。私はこれを聞いてさすがは偉いものだと思った。そのマスベロ君が本國へ帰った後へロングレイといふ博士が来た。この人とある晩、あるフランス人の宅であった時に、考古学には関係のない法律學者であるのに、その晩の食卓は彼が最近見て来たといふ法隆寺の話で持ち切りで、いろいろ立ち入った質問を受けた。そして最後に大きに改まった顔をして、一つ大に意見があるといふ。それは法隆寺村で修理の作業小屋の側を通った時に、製材工場などで使ふ機械鋸の音がしたがこの法隆寺ほどの貴重な建物を修理するのに、あんな現代式のものを使ふのはよくない。大工道具もやはり聖徳太子の頃と同じものを特別に打たせて、それを用ゐなければいけない。さうでないとどことなくもとの味が出て来ない。とかういふ説で、それはもっともだけれどもそれほどにしなくともいいかと思ふと私がいふと、いや私どものフランスであれ位の仕事に手をつける時には、それぐらゐのことはやることになってゐますといふ。これには私もかぶとを脱いでしまった。(この項つづく)           
 

『会津八一全集』 中央公論社


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