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いつか空が晴れる №78 [雑木林の四季]

     いつか空が晴れる
           ―Born to be wild―
                     澁澤京子

 この間、K君からメールを貰った。私も知っているS君と一緒に『イージー・ライダー』を観に行ったのだそうだ。・・思えば小学校6年の時、『イージー・ライダー』を観たくて、補導員に見つからないように長ズボンに履き替えて、僕は公開日に映画館に行きました、とある。五十年ぶりに観て、気が付いたことは「アメリカ人は、自由を愛するが自分より自由な人間は憎む」ということだったのだそうだ。

私は子供の時、あの映画を観て、なぜ主人公が三人とも唐突に殺されてしまうのかよくわからなかったなあ・・
「自由を愛するが、自由に生きる人間は憎まれる」はたぶんアメリカでも日本でもどこでもあることで、あの映画に出てきたような、保守的なタイプがトランプを支持しているのだ。もっともトランプのイデオロギーは保守だけど、その経済政策は新自由主義で、まるでダーウィニズムのような弱肉強食型の経済。
しかし、自由というのは、遺伝子の生き残り戦略のように、生き残るためならなんでもありとはまったく違うものだろう。自由であるとは、むしろ「人間らしさ」を守っていくことじゃないだろうか。
「・・だからこの先、(南部の醜い人間)に罵倒され鉄砲で撃たれて、野垂れ死んでも後悔はしたくない。・・」(原文ママ)
と、K君の長いメールは締めくくられていた。誰でも若いときには、夢を持つ。彼の決意がひしひしと伝わってくるではないか。長い間仕事していて、さぞかし理不尽な嫌な思いもしたんだろうなあ、と思っていたら、例の「桜を見る会」で、国会での総理の発言とANAホテルの回答が食い違うというニュースを見た。

領収書に名前が明記されていない、という総理に対し、それはありえないとANAホテルが正直に回答したため、安部総理の側近がホテルを恫喝、圧力をかけるという顛末。

あわてて恫喝して圧力をかける時点で、どちらの言い分が正しいのかは誰の目にもあきらか。ANAの率直な回答は、良心的でスッキリしている。
どんな人間にも公平な態度で接するということと正直であるということは、ホテルとしてまっとうな態度であり、倫理的なのだ。
なのに、桜を愛でるような人間が、ムキになって自己正当化、長々と抗弁したあげくのはてに恫喝し、裏にまわって圧力をかけたりするとは。

バンクシーに『悪の凡庸さ』(The Banality of the Banality of Evil)という作品がある。ハンナ・アレントの言葉をもじったもので、凡庸な風景画の中にナチスの制服を着た将校がベンチに座って山の風景を眺めている、というもので思わず笑ってしまう絵。ヒットラーがもともとは絵描きを目指していたことを思い出させる。ヒットラーの絵は、上手いだけで何のメリハリも強さもない、生気のない風景画だからだ。
「悪の凡庸さ」とは、善良な市民でも、何も考えずに唯々諾々と機械的に上の命令に従っているうちに、集団に流されて悪に加担してしまうことがある、という内容だったと思う。権力は自分に都合悪ければ圧力をかけるのが当たり前、と普通に受けとめてしまうこと自体、すでに悪に加担しているってことなのかもしれない。理不尽を理不尽と思わなくなって、いつしか人の感受性が鈍磨していくのは自覚できないだけに恐ろしい。

バンクシーの『悪の凡庸さ』は、意図的に生気というものを欠いたタッチで描かれていて、これを見ると、何が欠けると人は人間らしさを失って、知らないうちに凡庸な悪に落ち込んでいくのか、といろいろと考えさせられる絵なのである。
人間らしさとは、人の最も善良な部分なのであって、自己保身や貪欲のようなエゴイズムに流れるのを否定するものでもあるだろう、それは堅苦しい道徳とも違い、むしろ人を解放するものじゃないだろうか。そして、自分自身へのしっかりした信頼がなければ、人は容易に権力や世間の価値観に呑みこまれてしまうのだ。
自律的な人間とは反対に、他律的な人間、自分のはっきりした価値観を持たず、他人の評価に依存して世間体を重視する人間は、他人の動向もやたらと監視するし、絶えず他人の目を気にして自分自身をも拘束してしまうため、自分より自由に生きる人間を嫌うのだ。
『イージー・ライダー』の映画の中で、主人公たちへ向けられたのは、閉塞感の漂う南部の小さな田舎町の淀んだ日常を生きている人たちの、野卑な好奇心と、異質な人間に対するむき出しの敵意だった。

権力を持った人間が、力を濫用する、不安な人間が溜まったストレスを弱者にぶつける、理不尽なニュースが日常のようになっている今の日本の社会で、K君のメールと、ANAホテルにかかった政治圧力は、人間の自由とはなんなのか?と、改めて考えさせてくれるきっかけになった。相対主義には、もう、うんざり。なんでも許容したあげく、ヘイトスピーチが市民権を得ただけ。そして大きな悪は問題にしないで、芸能人や個人のスキャンダルには、マスコミは蜂の巣をつついたように大騒ぎ。『イージー・ライダー』の南部の田舎町の人間のように、枠から外れた個人をターゲットにして、重箱の隅をつつくようにあら捜しするのだ。価値観のはっきりとしない相対主義は、他人の評価に依存する他律的な人間を増やし、集団同調の起こりやすいムラ社会のようになる。他律的な人間は、自分と異質の人間を攻撃、排除することによってなんとか己のアイデンティティを保とうとするので、いじめや差別の問題もおこりやすくなるだろう。

理不尽な、おかしいことをおかしいと感じる感受性と、正直であることは、いつの時代でもとても大切なものなのじゃないだろうか。
人を解放して自由にするものは、まぎれもなく真・善・美なのだろうと、私はどこかで信じている。

若いときのみずみずしかった感受性を守ろう、そのためには常に走り続けて止まらないこと、淀まないこと。そして、音楽のように流れて生きていきたい。私は、昔の私の周囲にいた、まだ若かった友人たちの輝いた顔を思い出しながら、これを書いている。

澁澤京子「悪の凡庸さ」.jpg
『悪の凡庸さ』(パンクシイー)


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