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梟翁夜話 №58 [雑木林の四季]

素足の云い分

                翻訳家  島村泰治        

じっと手を見る目を、ふと足元に走らせる。寒の最中に素足だ。足袋を履くでもなく、サンダルを突っ掛けた素っぴんがひと目には寒々しい。が、さぞや冷たからうにと同情めいた挨拶が本人には何よりも鬱陶しいのだから、これはもう埒外である。

そう、コロナウイルスがどうのと巷が騒ぎ、それでなくても呼吸器官の災難だけは避けたい時なのに、埒外を他所に本人は至極満足なのである。脚は素足に限るとさえ喝破してゐる。何せ足の指たちが自由奔放に蠢く快感が何よりだし、床のものを掴んで拾ひ上げたり、ぐーちょきぱーなどが軽々とできる楽しさは例えやうもないと云ふのだ。医者が云ふには末端の筋肉は使うほどに育ち血の巡りを盛んにするとか。本人曰く、朝の足の指体操でその日の体調が予感できるとふ。恐れ入ったものだ。

恐れ入ると云へば、本人は足首から先にベンティレーションの機能があるとさえ云ふのだから、何をか況んやである。睡るときは足首は布団の外、素足丸出しでよし。足元が温いと寝付かれないと云ふに至っては返す言葉もない。つまりは持って生まれた体質らしいのだ。体質だからとて、寒中素足で歩き回るのは過ぎたる行状ではと問へば、そこが生来のと来るのだから始末に負えない。

そういう本人も現役時代は大使館などの公務で流石に素足はなかっただろうと念を押せば、万止むを得ず靴を履いたと、ただし、帰宅するなり草履に履き替えて脚の指たちを養生した、と。日頃から足の指先を踏まえて歩く倣いで、靴の中で指先が藻掻く惨めさを思ひ出してほろりとするとさえ云ふのだから、これはもう云ふには及ぶ世界だ。

引退したいま、本人は辺り構わずこれ見よがしに素足で闊歩してゐる。接する要人とて居らず義理で座る宴席もなく、世間の縛りを解かれたいま、素足の指たちは欣喜雀躍、ビルケンシュトックを履きこなしてゐる。

しかしここに一つ問題が出来(しゅったい)した。云ふなら素足哲学の社会性だ。縛りこそ解かれたが人の付き合いは残る。人様が集まれば社会ができ、社会ができれば約束事が生まれる。その一つに「身形」(みなり)がある。衣裳が履き物を選ぶのは道理で、背広を着れば靴は当然でズックさえ疎まれる。況んや草履の類は埒外である。素足が許されるのは詰まるところ普段着の世界だけだから、素足哲学の身形は浴衣に団扇に狭まる。さて、まともな付き合いを素足で通す手立てはないものか。

窮すれば通じるとか、ある日ふと浮かんだ妙案に本人は小膝を打って悦んだ。寺には作務と云ふ行がありその装いに作務衣というものがあろう。素足に草履で作務に勤しむ寺びとたちは世間の付き合いを作務衣で通して何の違和感もない。聖観音への帰依もあり、ここは在家を装ひ作務衣を「正装」に処嫌わず出没しようと決めたのである。

以来、本人は台湾絡みの行事にも、メディアの取材にも臆面もなく素足にビルケンシュトックで出向く。タゴール指向の白髭を扱(しご)きながらの素足姿は相当な異形らしい。それでも本人は至極満足らしい。行きつけの珈琲店ではその異形がひと目を惹き、毎度有り難うの挨拶を受けてご満悦だ。髭と素足の効用である。

本人とは、ご賢察通り筆者のことだ。拝眉の折は改めて素足の言い分をお聞きいただくとしよう。


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