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雑記帳2020-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-3-1
◆銀座は江戸から昭和にかけての昔懐かしい香りがいっぱいです。常に時代の先頭を走ってきた銀座にはちょっと歩けば日本初と冠するものをたくさん見つけることが出来ます。

銀座の地名の由来は銀貨貨幣鋳造所。1598年(慶長3年)に京都伏見に創設されたのがはじまりです。1606年(慶長11年)には駿府に幕府銀貨鋳造所が設けられ、1612年(慶長27年)に江戸のこの地に移設されました。その後、銀座は人形町に移転し(蛎殻銀座)、移転に伴って「新両替町」になったのですが、もともと江戸町民の親しんだ銀座の名称が定着したのです。 ティファニーの前にある「銀座発祥の地」の記念碑は昭和30年に建てられました。

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銀座発祥の地の碑

京橋は、慶長8年(1603)に造られました。幕府が架ける公儀橋としてで、擬宝珠を据えられることが許された橋でした。擬宝珠のある橋は、この京橋と、日本橋、新橋の3橋のみです。東海道の日本橋より京へ向かう、最初にわたる橋でした。昭和34年(1959)に京橋川の埋め立てによって撤去されましたが、擬宝珠は京橋親柱の向かいに立つ、銀座一丁目交番の屋根に残されています。

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京橋の親柱
京橋の親柱(交番の擬宝珠) のコピー.jpg
交番の屋根は京橋の擬宝珠

京橋親柱に並んで明治7年に点火された銀座カス灯の実物が再現されています。ガス灯は、江戸から東京へと国家新生の象徴として、当時の状況は錦絵にも描かれました。交番の近くには煉瓦銀座の碑もあります。

明治5年に発生した大火災は銀座大火と呼ばれています。折からの強風にあおられ東京の中心地丸の内、銀座、築地一帯が焼失しましした。これをきっかけに、明治新政府は銀座を耐火構造の西洋風の街路へと改造することになります。この時採り入れられた煉瓦街と街路樹の柳は銀座の名物になりました。いずれも姿を消しましたが、煉瓦が発掘されたのを機に、昭和31年(1956)、当時のままの「フランス積み」という方式で再現した碑がたてられました。

近くにはこの地発祥の2つの碑がならんでいます。「江戸歌舞伎発祥の地」と「京橋大根河岸青果物市場跡」です。

江戸歌舞伎は寛永元年(1624)に猿若座(のちの中村座)の猿若勘三郎が、日本橋と京橋の中間の「中橋広小路」で櫓をあげたのが始まりとされています。一帯はそれ以前から芝居・見世物などの興行街として栄えていたようでした。

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江戸歌舞伎発祥の碑

寛文4年(1664)に京橋川の水運を利用して、京橋の北爪西側に野菜の市場が設けられました。ここは大根の入荷が多かったので「京橋大根河岸市場」と呼ばれました。明治の終わりには対岸の銀座1丁目にまで規模は拡がって、青物、果物のほか、魚類・乾物も扱うようになり,昭和10年(1935)築地の東京卸売市場に合併・移転するまで続きました。

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京橋大根河岸市場の碑

交番を後に、大通りからそれて銀座三原通りを歩き始めてほどなく古風なビルが目にはいりました。かっては「銀座アパートメント」と呼ばれた奥野ビルは、銀座界隈でも屈指のモダンな高級アパートでした。民間の住居ビルとしては日本初のエレベーターをそなえていました。4人乗り、手動のエレベーターは今も現役です。現在は約20店のギャラリー-が入居しています。

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奥野ビル

この通りには文房具の伊東屋があります。本店は銀座中央通りにテイファニーと並んでいますが、開設時からアルファベットのハイカラなロゴが評判になりました。外国人にも人気の文房具ショップです。何十種類もあるボールペンは値段のさほど高くないものでも、さすがに景品でもらったペンより書きやすいと評判なのです。

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イトウヤ

紙パルプ会館の屋上ではミツバチを飼っています。
高層ビルばかりで自然のない街と思われている銀座ですが、半径2キロに皇居や浜離宮、日比谷公園のある銀座は実はミツバチにとって魅力あるエリアです。
「銀座ミツバチプロジェクト」は2006年にスタートし、今では年間1トンの蜂蜜がとれるまでになりました。銀座のケーキ屋さんや漬物にも利用されて美味しいと評判だそうです。ここでしか味わえない究極の地産地消です。

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紙パルプ会館

紙パルプ会館のすぐ近くにあるのは王子サーモン。王子製紙が産んだスモークサーモンの店です。

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王子サーモンのビル

商売に稲荷神社はつきもの、銀座にも古い稲荷神社がいくつもあります。
銀座1丁目にあるのは幸稲荷。江戸時代、京都の伏見稲荷神社から勧請され、縁結び、商売繁盛にご利益があると言われています。

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幸稲荷

3丁目の朝日稲荷はビルの屋上にあります。震災や戦災に見舞われながらそのたびに復活、昭和58年のビル改築に伴い本殿を屋上に安置しました。1、2階を福抜けにして、地上にある拝殿での参拝の音声がパイプを通って屋上にある本殿に届くようになっています。

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朝日稲荷
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御神体は屋上に

宝童稲荷神社は、4丁目にあって、江戸時代から伝わるといわれ、主に子育ての稲荷神社として知られるようになりました。ここは周辺の方々がしっかりとお世話して、路地の中ほどの大地に鎮座しています。かつては江戸城にあり、将軍の子息の早死を防ぐために祀られた神社で、これを勧請して鎮座したとされています。

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宝童稲荷

銀座の柳は明治30年ごろ銀座通りにうえられました。その後も撤去、復活を繰り返しながら多くの詩歌にうたわれた銀座のシンボルです。昭和43年に歩道の改修にあたって移植され現在の銀座柳通となづける際に碑が建てられました。銀座の柳の碑はほかに、新橋、数寄屋橋公園にもあります。ことほどさように、銀座に柳は似合うのです。

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銀座の柳由来の碑

明治14年、英国医学を研究する成医会講習所が医学博士高木兼寛によって開設されました。それまではドイツ医学が主流だったのにたいし、日本で最初のイギリス医学の導入でした。講習所は明治40年に東京慈恵会医院専門学校に、大正10年には東京慈恵医科大学へと発展します。碑は大学創立100年を記念して昭和56年に松屋通りに建立されました。現在大学のキャンパスは西新橋と国領にあります。

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慈恵医大発祥の碑

近くにある教文館書店は路面店として営業している銀座で唯一の書店です。編集者として村岡花子が在籍していました。木村屋の看板は山岡鉄舟の字です。

往年のサラリーマンには懐かしいキャバレー「白いバラ亭」は今、駐車場に。隣接する煉瓦亭、グリルスイスはカツカレー、オムライス発祥の地です。銀座は食でも時代をリードしました。

日本ではじめての電気街灯(アーク灯)が、明治16年(1882)、東京電気会社の発起人の一人である大倉喜八郎の手によって点火されました。デモンストレーションとして公開点火された場所に日本最初の電気灯柱の碑がたっています。それまでのガス灯に比べるとはるかに明るく、連日(連夜?)多くの見物客が詰めかけました。4代目として復活したモニュメントは、設置当時と同じデザイン。高さ12m、平成の世にふさわしく、水銀灯はLEDに、ガラス製だった火屋(ほや)は樹脂製に変わりました。

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4代目の電灯

英国屋とティファニーの間にある路地は水玉小路と呼ばれました。小路は飲み屋街。建ち並ぶ飲み屋から漏れる明かりが水玉のように見えたのでこの名がついたのだそうです。ちなみに大通りの英国屋でスリーピースのスーツを仕立てれば1000万円!だそうです。

銀座はなんでも高いと思われがちですが、リーズナブルなお店もたくさんあります。人の集まる界隈にはアンテナショップもいっぱい。アンテナショップで郷土料理のランチを楽しむこともできます。一角を少し歩いただけで、広島、沖縄、山形、茨城の4軒ものアンテナショップを見つけました。銀座は昔も今も、背伸びするおしゃれな街と同時に庶民の街でもあるのですね。

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アンテナショップ沖縄
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アンテナショップ山形

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