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雑記帳2020-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-2-15
◆江戸東京野菜をご存知ですか。

1月末、これまで時々顔を出していた江戸東京野菜のことを知りたくて、新装なった渋谷のホテルへでかけました。江戸東京野菜の伝道師、大竹道重さんと、エクセルホテル東急の料理長、白幡健さんとのコラボで、江戸野菜を耳と舌で味わう企画でした。

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江戸東京野菜の伝道師、大竹さん

東京は、都市部の23区と、多摩地域の中山間部、そして島々からなる、東西に長い地形。高度差も海抜0メートルから1000メートルまであって、実に様々な環境を有しています。
そして、それぞれの地で、そこの環境に応じた農業がおこなわれています。
たとえば、三宅島の明日葉は有名ですが、明日葉の畑のすぐそばにはハンノキの茂みがあります。明日葉とハンノキを一緒に植えると、共生してよく育つのです。
東京は大産地ではないが、何でもある、その意味で東京の農業は日本農業の縮図だといえます。

江戸時代、江戸は野菜の大消費地でした。広重の「江戸名所一覧双六」を見ると、当時の人々が江戸と認識していたのは、東は本所深川、南は品川、西は新宿、北は王子あたりまで。このエリアで生産された野菜が、「江戸自慢」の番付表になって今に残っています。なんでも番付表にするのは、江戸っ子の好きな遊びでした。横綱は断然、「練馬大根」ですね。

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江戸名所一覧双六
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江戸自慢番付表

こうして、江戸期から始まり、明治、大正、昭和にわたって、東京の野菜文化を継承し、東京23区から多摩地区までのエリアで在来種の栽培方法で栽培されている野菜を江戸東京野菜と呼んでいます。大竹さんが種の復活に取り組み始めた30年ほど前はわずか15品目でしたが、現在、50品目になりました。

江戸野菜の固定種はもともと江戸にあったものではなく、地方から参勤交代で持ち込まれたものでした。もとの土地に合っていた品種が江戸の環境に合わせて改良されたのです。
固定種ですから、掛け合わせて作った交配種とはちがい、形が不ぞろいだったり、大きさもまちまちという欠点はありますが、江戸野菜のルーツが地方だったとは面白いではありませんか。

たとえば、「千住ネギ」の先祖は大阪です。
もともとは摂津から持ち込まれた「浪速ネギ」と呼ばれる葉葱でした。
葉葱は江戸の火山灰の土地には育たず、枯れてしまいましたが、処分のために焼いたところ、産地では食べずに捨てていた根のおいしさを発見したのです。
この結果、九条ネギを改良した根深ネギが生まれ、江東区砂村で栽培されたので砂村ネギと呼ばれ、のちに千住に行って千住ネギとなりました。千住は日光街道の宿場。当時、千住青物市場にはネギがたくさん集まったということです。
ちなみに、栽培期間の長いネギは都市農業にはむかないので、現在は近郊の埼玉県や茨木県が主産地になっています。

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江戸千住ネギ

練馬大根の生みの親はなんと、五代将軍綱吉です。
綱吉がまだ将軍になる前、松平右馬守だった館林の城主時代、練馬の地に産した大根に尾張からとりよせた大根を掛け合わせたところ、火山灰の土地にあっていたのか上出来。立派な大根ができたということです。収穫した大根はたくわんになりました。練馬大根漬けこみ図というのがのこっています。今でも、練馬は漬物やが多いそうです。

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練馬大根

中山道、志村の坂上に広がる干し大根は12月の風物詩でした。長さ1mにもなる大根がずらりと並ぶ風景は、地方から江戸に出てきた人々の度肝を抜いたと言います。巣鴨には練馬大根の種を売る店がならび、種屋街道と呼ばれました。人々は種を江戸のみやげにしたということです。形が不揃いでも干せば大丈夫。何より味がいいと評判でした。
こうして、練馬大根の種は旅人が持ち帰った地方でも栽培されました。信州の前坂大根、薩摩の山川大根などは練馬大根の子孫です。

練馬大根の良さは切ったときの音にも出るそうです。
青首ならサクサク音がするが、練馬はスパッと切れて音がしないのです。
サクサクも悪くないけれど、スパッと切れるというのがなんだか江戸っ子の好みそうな感触だと思いました。

練馬大根と並んで有名な江戸野菜に亀戸大根があります。
江東区は亀戸大根を町おこしにつかっています。香取神社では収穫祭をおこなったり、節分には福分け祭りと称して亀戸大根の配布をしています。亀戸大根が昔、おかめ大根、お多福大根とよばれていたのが福分け祭りの由来です。駅のホームには亀戸大根のミニ畑もあるそうです。

鍋や漬物に欠かせない冬野菜の定番、白菜は日本原産ではありません。
明治8年に中国から輸入されたのですが、日清、日露戦争で現地に行った兵士たちが白菜の種を持ち帰ったのが普及の始まりでした。
白菜はアブラナ科と交配すると結球しないという特徴があります。日本国内ではたいていの場所にアブラナ科の植物が自生しています。なんども失敗をかさねながら、アブラナ科の植物が生えていない松島湾の島で種をとることに成功したのが大正末期のことでした。今ではこんなに日常的な白菜もたかだか昭和以来の歴史しかないのです。
大正末期に栽培に成功した白菜は「下山千歳白菜」として江戸東京野菜の仲間入りをしました。世田谷区の下山家の畑で栽培されたのでついた名前です。昭和20年代、全国の白菜の産地がウイルス病で壊滅的な被害を受けていた中で病気に負けず生き残った白菜ですが、重さが何と4キロから7キロにもなる、現在の核家族の家庭では消費しきれない、まことに大きな白菜です。食べる家庭はなくなっても種は残したい、大竹さんの思いです。

この日使われていた食材の中には上記のほかにもたくさんの江戸東京野菜がありました。滝乃川ごぼう、内藤かぼちゃ、渡辺早生ごぼうなどなど。栽培されている土地や栽培した農家の名前がついているのが面白いですね。内藤かぼちゃは高遠藩城主内藤家の、2万坪もあったという内藤新宿の上屋敷で栽培されていたかぼちゃです。菜園には内藤唐辛子もありました。

ホテルの料理長、白幡建さんの説明を聞きながらランチをいただきました。

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冷たい前菜・・・東京野菜の軽いスモークと鮪の生ハム、マンゴーと山椒風味のビネグレット、サフラン香る下山千歳白菜と金町小かぶのクーリスープ仕立ての前菜

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暖かい前菜・・・東京野菜のキッシュ 花畑牧場のモッツアレラチーズとベーコンのうまみ、エシャロットフォンデュとバルサミコ香るプテイトマト(5色)とパプリカのマリネ キッシュの上にのっているのはラスパルーラというチーズの薄切り

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メイン・・・金沢中央市場直送の鮮魚(マハタ)のサラマンダーグリルと内藤カボチャのピュレ、千住葱のプレゼ 渡辺早生ごぼうのブリット添え、ブールブランソース)

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マハタは軽く塩をふって冷蔵庫で一晩おいて水分をぬく。身がしまり、一夜干しに似た感じになるという
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普通ではめったに手にはいらないという見事なマハタの頭

デザートはムリームブリュレ、ミルクアイス

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食事中に小耳にはさんだ話です。大竹さんが勝手に名付けた「江戸城堀大根」と言うのがあるそうな。前身は日本列島の海岸沿いに自生していた浜大根です。野菜と言うより野草。今は皇居となった江戸城内に広く分布していたのが残っているのだけれど、皇居の中なので野草といえども手を付けることはできない。一種のからみ大根で、これで蕎麦を食べるのが大竹さんの見果てぬ夢らしい。信州にもからみ大根を使った蕎麦の食べ方があるが、浜大根のからみはその比ではないのだとか。

テーブルに、練馬の有名な農家(!)、白石さんが同席していました。
江戸東京野菜をもっと量産できないのかと言う白石さんの問いに、江戸東京野菜は収穫も含めて栽培が難しいので、担い手が増えるとは思えない。畑の周辺に直売している今の状態が限度ではないか、農地の面積も地方と東京では比べ物にならず、「早稲田茗荷」がどんなにおいしくても高地の茗荷と競争はできないと言うのが大竹さんの答えでした。それでも種を残すことが大事。それは文化を継承することだから・・・。都内の小学校の中には命をつなぐ教育として、6年生が江戸野菜を育てて種をとり、その種を後輩に手渡すセレモニーが毎年行われているところもあるそうです。江戸の文化を今に伝える江戸東京野菜を日本遺産にするのが大竹さんの夢です。


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