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医史跡を巡る旅 №70 [雑木林の四季]

「水際で防ぐ~検疫哀歌・前篇」

            保健衛生監視員  小川 優

ここのところ、ほぼ毎日、新型コロナウイルス感染症に関するニュースが世間を騒がしています。実は前回の原稿が間に合わなかったのも、新型コロナウイルスのために本業の方が忙しかったためです。

一連の報道の中でも、クルーズ客船内での感染拡大が大きな問題となっています。世界中でクルーズ客船の入港拒否が相次いでおり、あたかもフライング・ダッチマンのお話を彷彿とさせます。フライング・ダッチマンは神話の類ですが、古来船内で疫病が発生し、乗員がすべて死亡して無人となった、さまよえる幽霊船の話は枚挙のいとまがありません。
海外からもたらされる疫病の予防のために港湾都市や国家が行う、人の健康状態の確認や、食品や動植物の検査のことを検疫、英語でquarantineといいます。健康状態に疑いがあるときには観察期間中の移動を禁止したり、入港を拒否したりします。このquarantine、もともとはイタリア語の「40日間」を語源としています。中世のペスト流行の際、経験的に40日間発病しなければ感染の恐れがないことに気付いたヴェネツィア共和国が、船舶の入港時に臨検し、疑わしい船を港外に40日間止めおいたことが検疫の発祥となります。

「検疫旗」

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「検疫旗」 ~神奈川県横浜市金沢区長浜 検疫史料館

画像一番上の上半分黄色、下が青色の旗が、検疫艇が掲げる検疫旗。Quarantineの「Q」が図案化されています。ちなみに黄色は万国共通の検疫を表す色、青色は海を表しています。

ということで、今回は西洋医学事始番外編として、海の向こうからやってくる疫病の代表的なひとつ、コレラとの水際の攻防戦の歴史、そして検疫の歴史を、神奈川県周辺の医史跡を巡りながら振り返ってみたいと思います。

日本は島国のおかげ、そして江戸時代までは鎖国のおかげで、世界的な疫病の流行から守られてきました。ところが幕末に諸外国の船が訪れるようになった途端、堰を切ったように感染症の洗礼を浴びることになります。
コレラが初めて日本に持ち込まれたのが、文政5年(1822)。朝鮮から対馬を経て下関に伝播、西日本一帯に広まりましたが、箱根の関所が越えられず江戸には至りませんでした。
続いて安政5年(1858)、上海に寄港したのちに長崎に入港したアメリカ海軍軍艦ミシシッピー号が、日本国内に再びコレラ禍を巻き起こします。この時コレラは世界に爆発的に広まっている状態で、いわゆる3回目のコレラ・パンデミックが日本にも及んだこととなります。前回の時と異なり、ほぼ一か月後には江戸でも患者が発生、諸説ありますが全国で数十万人が亡くなったと伝えられます。
以後なかなか終息しないまま、明治維新を迎えます。
明治10年(1877)には国内各地で、同時多発的に初発患者が発生。横浜では中国厦門(アモイ)から輸入された物品が原因と推定されるコレラの流行が、居留地から広がります。また疫病と戦争は密接な関係があります。その年9月に西南戦争が終結、兵士を東京に帰還させるために運航された和歌浦丸、東海丸の船中でコレラが発生します。横須賀の長浦湾に停泊させ、浦郷避病院に収容しますが、多数の死者が発生しました。

「追浜官修墓地」

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「追浜官修墓地」 ~横須賀市浦郷町3丁目

官修墓地とは、戦死または病死した兵士を葬った集団墓地のことで、かつては国の管理でしたが、現在その多くは自治体などに委ねられています。追浜の官修墓地は街並みから外れた寂しいトンネルの上にあります。故郷を遠く離れ、異郷で病に斃れた無念さはどれだけのものであったでしょう。

翌年の明治11年(1878)には長浦に仮の消毒所が設置され、これが横浜検疫所の起源となります。明治12年(1879)にも愛媛県で初発したコレラが国内に蔓延し、患者数16万2,637人、死者10万5,786人に達する大流行となります。政府は長浦の消毒所を常設の施設として、コレラ流行期間には10日間の検疫停泊を義務付けます。そして同年7月「海港虎列刺病伝染予防規則(海港規則)」を公布、日本初めての検疫規則となります。ただし当時の日本と西欧列強との間には不平等条約しかなく、後進国日本の規則など無視される例もありました。この時横浜で、臨時検疫委員として協力したのがアメリカ人医師で、横浜市立大学附属市民総合医療センターの前進、十全病院院長であったデュアン・シモンズでした。

「シモンズ墓碑」

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「シモンズ墓碑」 ~東京都港区南青山二丁目 青山霊園

明治28年(1895)、横須賀軍港拡張のために長浦が接収され、消毒所も横浜の長浜に移転します。翌年、消毒所の名称は検疫所と改められ、設備も整えられていきました。そして明治32年(1899)、不平等条約改正の一環として「海港検疫法」が制定されます。これにより海外船舶に対しても強制権のある検疫が行えるようになります。

「海港検疫法」

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「海港検疫法」 ~国立公文書館アーカイブ

それまでの検疫はコレラ流行の都度告示が出され、その告示の期間のみ検疫が行われていたのですが、組織も常設となり、検疫官が常置され、日常的に検疫活動が行われるようになります。同年採用された検疫医官に野口英世がいます。

「野口英世像」

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「野口英世像」 ~神奈川県横浜市金沢区長浜 長浜野口記念公園細菌検査室

野口英世は検疫医官補として採用され、検疫所の細菌検査室で細菌検査にもあたります。着任して間もない頃に、香港から長崎、神戸を経て横浜に入港した亜米利加丸の船員が、ペストに罹患していることを細菌検査で確認します。ペストは明治28年、エルサンと北里柴三郎がそれぞれ発見しました。野口英世は伝染病研究所で北里に師事していたことで、ペストの検査法を知っていたため確認できたものと考えられます。

「長浜検疫所細菌検査室」

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「長浜検疫所細菌検査室」 ~神奈川県横浜市金沢区長浜 長浜野口記念公園

英世が働いていた細菌検査室が、当時のまま残されています。横浜検疫所輸入食品・権益検査センターに隣接した長浜野口記念公園内に移築され、いつでも見学することができます。

「長浜検疫所細菌検査室内部」

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「長浜検疫所細菌検査室内部」 ~神奈川県横浜市金沢区長浜 長浜野口記念公園

横浜検疫所輸入食品・権益検査センターの敷地には、検疫期間中乗船客を収容した隔離施設、停留所の一棟が、検疫史料館として残っています。

「検疫史料館「一号停留所」

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「検疫史料館「一号停留所」」 ~神奈川県横浜市金沢区長浜 

当時の船客は乗船等級により、船室、食堂、そして食事の内容まで厳格に分けられていました。隔離施設もそれを踏襲していて、一号停留所は一等・二等など上等船客用の施設です。したがって施設は当時としては贅沢に作られ、同時期に建築された洋風のホテル、箱根の富士屋ホテルや日光金谷ホテルと並ぶホテル様建築といえます。

「一号停留所談話室」

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「一号停留所談話室」 ~神奈川県横浜市金沢区長浜 検疫資料館


こちらが談話室。正面に掛かっている書は、東京市長や閣僚を務めた後藤新平によるものです。一号停留所は現在検疫資料館として、検疫に関する資料が展示されています。ただ検疫施設敷地内のため、年に一度の公開日のみ見学することができます。


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