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対話随想余滴 №31 [核無き世界をめざして]

余滴31   関千枝子から中山士朗様

           エッセイスト  関 千枝子

 なんだかあまり大したことをしていないのですが、野暮用が多く、足の方は順調なのですが、じんましんが二カ月近くも続いて閉口しているところへ、被服支廠問題。年明け早々なんとなく気ぜわしいです。被服支廠問題は、この前少し電話でお話しいたしましたが、大きな話題となり、皆さん関心が高いようです。竹内さんの学習会で緊急臨時学習会を組み、その第一回が一月十九日だったのですが、六〇人以上も集まり、机も取り払い、補助いすを入れ、超満員でした。この日は、永田浩三さん(元NHK)が問題提供者だったのですが、永田人気というのがあるそうで、それで人がたくさん来たのですが。永田さんの話はそんなに目新しいものではなく、(永田さんも戦後生まれ、ですから)でも、いろいろな映像を見せ、映像に合わせて、峠三吉の詩「倉庫の記録」の朗読が入ったことが、皆さんの感動を呼んだようです。この詩、「原爆詩集」に入っており、被服支廠の倉庫の二階・被爆者の収容所になったあの場所の惨状をリアルにつづった紙ですが、峠さんの「ちちをかえせ ははをかえせ」の詩を知っている人も、この「倉庫の記録」は知らない人が多いようで、みな静まり返って聞いていました。
 広島から参加された多賀俊介さん(被服支廠の保全を願う懇談会)が、現在の運動の状況を語られ、当時学徒動員でここで働き、軍靴を作っていた中西さんのお話、そして何より、竹内さんの膨大な資料(竹内さんの会に行くたび、感心します)なぜ倉庫を全部保存したいか、よく意味が分かってくださったようでした。
 広島被服支廠は大正二年に建ったもので、一万七千平米の広大なものです。工場(軍服、軍靴)と倉庫がありました。私も一九四四年、女学校一年生の時、臨時動員で、一週間ばかり働いたことがあります。その時は全体がどんな構造になっているかなど全く分からず、倉庫など、どこにあったのやら全然わかりませんが。とにかく戦後、工場の部分は全部取り壊され、別のものになっており、今は倉庫四棟だけが残っております。南側から北へ、三棟の大きな倉庫が並び、これが県の所有です。一番南の倉庫の横、エル字型に、もう一つ倉庫があり、これは国の所有だそうです。
 この県所有の三棟が、今回、保存か処分か問題になっています。被爆、そしてそれからの月日に傷んでおりますが、当時を物語っています。煉瓦作りのように見えますが、コンクリートの躯体の上にレンガを積み上げたもので、建築学上でも貴重なものだそうです。建築以来百年たち、地震がくれば危ないというので、県は全部補修すれば金が膨大にいる(一棟約三十億)ので、一番南の一号棟のみ補修して残す、二号棟三号棟は解体する。一棟だけ残せば、状況はわかるという案を出しました。すると反対の声がわっと出ました。被爆建物は現在広島市に八十数棟しかないそうで、その中で被服支廠は最大の建物、古いものをすぐ壊してしまうのは問題。分けてもこの被服支廠は文化財としても重要というのです。もちろん、壊すのは仕方ないではないかという声もあります。原爆ドームにしても、原爆のことを思い出したくない、壊してしまえという声もあったそうですから。
 私も、この倉庫の歴史などを聞くのは初めてで、いろいろ勉強になりました。私自身は、戦時中の臨時動員の時しか思い出はなく、収容所、になった時のことも、たくさんの死体を積み上げて焼いた話もあとで聞いただけですが。でもこの日、いらした方々は、やはり残っている建物は、残すべきだと思われた方が多かったようです。
 それにしても、私このごろ不思議に思うのですが、建物の修復の費用にしても新たな建築費用にしても、そんな値段?というように高いの、不思議に思います。今度の件にしても一棟三十億というのは、ほんと?と言いたいのですが。もしかしたらこの業界だけ安倍さんの望むインフレになっている?
 なお、その後の情報によると、この件は、広島県や県議会の方からも慎重論が出て、結論先送りになっているようです。もともと広島県の二棟解体案は二月の県議会に出すはずで県議会の自民党は解体案に賛成だったのですが、反対の声が高まる中、自民の中でも慎重に討論すべきだという声が出、その後、県選出の自民国会議員の中でも動きが出ているようです。まあ、結構なことだと思いますが。
 
 今年、年賀状でも、いろいろな方に、今年の8・6,8・9がオリンピックに吸い込まれそうでとても心配ということを書きました。すでにこのことに気が付いている方もいるようで、あちこちから講演の話が来てありがたいことだと思います。また、オリンピックの開会式に、いつも国連事務総長が出席するのが慣わしなのだそうですが、今年国連事務総長は、開会式に出ず、広島の8・6に出て、そのあと閉会式に出ることになったと報道がありました。(一社だけの報道ですが間違いないと思います)。うれしいことですね。世界中の多くの人々が核廃絶に真剣になっているのに、核兵器禁止条約に否定的で、オリンピックを隠れ蓑に、憲法改悪だの様々なことをやってしまいそうな安倍。許せない感じです。
 
 そんな中、一月二十二日には跡見学園中学二年の広島修学旅行の事前授業に行きました。この学校は歴史の古い私立の学校ですが、大変平和教育に熱心です。前に話題になりました、渡辺美佐子さんたち女優たちの「夏の会」の朗読劇も、毎年第一回の公演は、跡見の講堂でするのです。あと三の高校生たちも朗読に加わります。私は毎年この跡見での公演に招待されておりまして、それで跡見という学校が平和教育に熱心なことを知り、その縁で毎年、跡見にお話しに行くようになったのです。跡見の場合中学二年生、私のクラスが被爆全滅した時と同じ年です、私も張り切って話しますが、跡見の先生は、生徒たち全員に私の本を読ませて、講演の前に生徒たちの質問や感想をとってくださいます。ですから、私も、50分という短い時間に何を語ればいいか、考え考え語ります。
 一月二十四日。立川で、宋神道さんという元慰安婦を写した写真展がありました。韓国の方ですが、さまざまなことがあって戦後に日本に住みました。唯一の在日慰安婦として生きましたが、明るく踊りが好きな方で、「戦争がいけねえ、何があっても戦争をしちゃいけねえ」と言っておられたのを思いだします。
宋さんは何度も取材したことがあり、遠い立川までわざわざ行かなくてもと思っていましたが、展覧会の実行委員会の谷口和憲さんがあまり熱心でお手紙などくださるので、思い切って立川まで行きました。
 谷口さんは性暴力に反対する男たちの立場から運動に入った人で、生活は食えるだけの仕事をし、運動をし、それからこれはすごいのですが、一人で「戦争と性」という雑誌を出しています。この雑誌で、原爆のことを取り上げたことがありその時からの知り合いです。谷口さんが中心で、この展覧会を考え、飾りつけなども全部素人の実行委員たちの総力でやりました。会場費もいるし、展覧会はタダでやっていますし、大変だろうと思いましたが、賛同のカンパが二百人以上から集まり、無事に開催にこぎつけたとか。「入り」もよかったと思います、宋さんの日常を撮った写真に皆さん見入っていました。
 この展覧会のこと宋さんのこと。もっと書きたいのですが、また長くなってしまいました。またの機会に書きます。こんな展覧会をすれば「右」というか、慰安婦なんかいなかった、などとめちゃめちゃなことを言う方がいて,展覧会など開くと、よく暴力をふるうのですが、そんな方が会場に見えなかったのはよかったです。前の日に、一人そんな方が来て、しかしこの人は暴力を振るわないで、話し合いをずっとやったけど、平行線だったと言っていました。一度や二度の話し合いで通じるものではないでしょうが、暴力lでなく、論戦はいいことですね。
 私も、折角立川まで行ったのだからと、立川の友達に声をかけ会場まで来てもらいました、知の木々舎代表の横幕玲子さんも来てくださいました。知の木々舎のブログ、大いに増え、それはいいことですが、月二回、あれをブログに載せるの大変だろうと思いましたが、一時コーナーが四十を超え、作業が大変だったが、今は、三十数個に減った。今ちょうどいいくらい、だそうです。私たちの「核なき世界を求めて」も、大いに頑張って書き続けてくださいということでした。

 今年の正月明け、「男はつらいよ お帰り 寅さん」を見に行きました。考えてみますと映画館に行くのは久し振りです。大腿骨骨折手術後、杖だけではパワー不足ということでサイドカートを使っています。これで歩行はずいぶん早くなったのですが、階段の上り下りは、階段によっても違いますが、くたびれます。エスカレーターの方が楽です。
劇場や映画館は劇場の中に小さな階段があって不便なところが多く、つい敬遠していたのですが、この日はお天気も良く、出かけました。私が映画を見るのは、品川プリンスというホテルの中にある劇場で、六つの劇場が入っています。行ってみると相当の人が入場を待っていて、子ども連れが多く、これが皆寅さんかとびっくりしましたが、子どもたちはスターウォーズらしく、寅さんの劇場の入りは半分以下でした。入っている人も年配ばかりで、みな、寅さんを懐かしむ人のようです。寅さんの映画の感想を少し書きたいのですが、もう三千八〇〇字を超えてしまいました。次回に書きます。


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