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渾斎随筆 №50 [文芸美術の森]

焼失した法隆寺壁畫                   

                      歌人  会津八一    

 まだくはしいことはわからないが、ただただ驚いてゐる。なにぶん日本でも世界でも木造としてはこれが一番古いのだから、驚き惜しんでゐるものは日本人だけではあるまい。法隆寺の全景は小學校の教科書にも出てゐるし、誰の家にもある百圓紙幣の表に畫かれてゐるから知らぬものはないほどだが、この寺の存在のほんとの價値について、あまりよく認識されてゐないうらみがある。大切にしてゐるといふだけで、よく到ってゐないのならば文化的態度とはいはれない。
 法隆寺は随分久しい以前から修繕に掛ってゐるが、仕事を徹底的にやるために地上に立ってゐる木造の部分は、一たん全部をとり崩して材木にしてしまひ、悪い所を取換へてまた組立てるといふやり方で久しい前から蔑むねかが出来上った。今やってゐるのは五重塔と金堂の二つで、五重の塔はすっかり取り拂ってただの地ベタになってゐるから、金堂の方はこれも取り拂ふはずだが、なに分あの有名な壁畫があるので、その壁を支へてゐる柱や、これに連續してゐる部分が残されてゐた。そして数年前から取り掛ってゐる壁畫の模冩は、その中で行ほれてゐた。
 ところがその模冩をする人達のアンカの火の不始末からでもあらうか、堂の中の壁畫が傷んだけれども、外部は残っているというラヂオの話だから、これで法隆寺の金堂が焼けてしまったといふのではない。焼けたり焦げたりした材木の部分を取換へれば、またあの美しい建築を見ることが出来るであらう。しかし壁畫がほとんど全部駄目になったといふことは惜しんでも餘りあることだ。
 どうかするとこの建物と壁畫が同じ時代に出来たやうに漠然と考へてゐる人が多いやうである。それは法隆寺などでも昔はこの壁畫は聖徳太子の在世のころに、朝鮮から来た曇徴(どんちょう)といふ人が畫いたのだといひ博へてゐた。しかし壁畫の畫風をよく見るとそれ程古く見えない。
 どうも法隆寺が最初に出来たころの繪ではなく、建築が出来てから餘程たって畫いたものだと、今では一般に學者が認めてゐる。もっとも法隆寺の建築の時代も學者によって色々の説があるので、創立ののち、火事にあって今のものは二度目のお堂であるから、壁畫の時代とお堂の時代は同じころで、決して最初のもの即ち推古天皇の十五年に建ったものでないといふ説もあるにはあるが、建物と壁畫に幾らか時代の差があり繪の方が新しいとするならば、わが国民が最も古い美術を失つたと云ふ禍ひは辛うじて免れたことになるので、不幸中の幸ひともいふことができる。新潟縣出身の関野貞博士がこの建築は推古天皇の十五年、即ち西暦六百七年に建てられたことを論定したのは明治年間であった。これに對し喜田貞書博士は、この建物は天智天皇九年即ち六百七十年に火災で全焼してゐるから時代は一時代さがるものだといふ議論、即ち再建論を主張した。これが三十数年も對立のままで今まで持ち越してゐるうちに関野、喜田の両博士は死んでしまつた。私は今のお堂は二度目ではあるが推古天皇の三十五年ころの建立だと思ってゐる。即ち関野博士の意見よりも二十年ばかり遅れて建ったものと見てゐる。それに足立康博士はやはり私と同じ時代の建立であると論じてゐた。
 こんな風に學者の問では、とにかく議論がまちまちであるのに一般の教育界ではごく簡単で推古天皇の十五年と信じ切ってゐるのは少しのんき過ぎる。日本にただ古い建物がありそれが世界に誇るべきものとだけ考へては、先租の財産を死蔵してこれを誇ってゐる子供のやうな考へだと思ふ。無くなってから口惜しがるだけでは藝のない話で、法隆寺の美術がどんな價値があるか、今の国民はどんな気柄へで焼け残ったほかの宝物を守ってゆくべきかをしっかり見定めてゐなければならないはずだ。壁畫の模冩といふことは大切なことだが、今の畫家がいくら骨折って模冩をしても、到底もとのやうなものが出来ないといふことは日本人の美術的能力が低下してゐるといふ證據にもなるから、これを何とかよく考へなければならない。この方がもつと大きな問題である。国民は失ったことをのみ悲しむが、従来これを大切にするのに注意が足りなかったのではないか、行き届いてをればこのやうな火災から防げたはずである。私はかつて日本の最も古い三基の塔を論じたことがある。それは法隆寺、法起寺、法輪寺の三つだが、法輪寺の方は数年前に避雷針が無かったために落雷で二時間ばかりで焼失した。幸ひ今回塔は焼けなかったが、あの大切な壁畫をなくしてしまったことは、その保管の態度、方法について反省する方が急務であらう。

              『夕刊ニイガタ』昭和二十四年一月二十八日


『会津八一全集』 中央公論社

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