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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №21 [文芸美術の森]

第四章 高島さんの言行録 9

          早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「だったら、あんたにあげるよ」
 《高原の道》を購入したいので、もう一度見たいという友人がいた。ところが見たあとで返してきた。そこまでは人様のことだから致し方ない。それからがまずい。いや、最初からまちがっていた。本来は私が増尾のアトリエに《高原の道》を受けとりに行くべきだった。友人から返してもらった絵も、私が増尾のアトリエまで持参すべきだった。ところが、高島さんが拙宅まで受けとりに見えた。当時はパソコンやコピー機、スキャナなどなかったので、書斎が広く見えた。終戦で軍刀をやりとりする儀式のように、《高原の道》を画家本人に返す儀式が始まる。こちらの風呂敷を解き、包み紙をはずし、本体に傷がないかをたしかめてもらい、それから同じ手続きで画家の風呂敷に収まる。その途中で、ふと画家の手がとまり、フイルムが逆廻りするように、絵がこちらに向きを変えた。一瞬、私の脳にひびが入ったらしい。つねにたいせつなことは聞かず、言いもできない私が、軽口だけはいつものように、考える前に唇をついてでた。
 「えっ? くださるのですか?」
 画家は一瞬の判断で、答えた。
 「あ、そう。だったら、あんたにあげるよ」
 我ながらあさましく、さもしいひと言だった。ひと言とはいえ、その無意識下には「いい絵だなあ、ほしいなあ」という気持ちがあったにちがいない。
 どんなに弁解しても時間のあと戻りはきかない。高島さんは一度「あげる」と言ったら、あとに引かない、そういう人だった。

「日本は戦争でアメリカに勝ったのです」
 印象に残った奇矯な片言がある。相手が私なので高島さんも遠慮がなかったのだろう。私を驚かせたかれのもっとも過激な発言はこうだ。「日本は戦争でアメリカに勝ったのです」。日米戦争が終わった一九四五年以降、ブラジルの日本人移民の間で日本は戦争に勝ったと主張する勝ち組と、負けたという負け組が二手に分かれて紛争が生じた。私たち日本にいる日本人から見れば不可解このうえない出来事だったが、当事者たちは真剣に争った。そういう背景があるので、なおのこと私は、歩きながら澄まし顔で言う高島さんの発言を聞き、どこまで本気で言っているのだろうかと疑った。
 しかし七〇年代初めに私が読んだフランス語新聞の記事に、米軍が惨憺たる犠牲を払って和平にこぎつけたベトナムで、いちばん多く進出しているのは日本企業であると皮肉まじりに書かれているのを読み、ふと高島さんの発言を想いだした。
 高島さんは欧米に数年いたので、「ヨーロッパ中心主義」を肌身で感じたはずだ。「ヨーロッパ中心主義」はのちにエドワード・サイードが『オリエンタリズム』で批判したようにヨーロッパの植民地支配の根幹にある。野十郎の反撥は近代化と同時に国民国家の成立を図った明治知識人の宿命的な側面でもある。
 高島さんはとぼけたような顔つきで、歩きながら、だれに言うとなく反駁的な口調でこう言った。
 「欧米の科学者は人類が進化するとメラニンの関係で皮膚の色が白くなるという。だったらクラゲがいちばん進化していることになる。またかれらは人類は進化につれて顔の下半分、つまり口もとが額と同じ垂直線になり、さらに額の線よりも引っこむようになると言うが、だとすれば地球上でいちばん進化しているのはキリギリスじゃないか。じつに馬鹿げたことを言っている」。
 こんな話なら私も笑って聞くことができた。
 なによりかれが明治二十三年(一八九〇)生まれの明治人であることを忘れてはならない。かれの父親は若い頃髷を結った武士だったのであり、明治維新の戦いに加わり、生前家族には言わなかったが、免許皆伝の剣の達人でもあった。その父親のしつけは厳しかった。野十郎は私のような昭和の企業家の子供とはちがい、毅然として武士の血を引きついでいた。
 「夫が玄関を降りるとき妻は懐紙で刀の刃をふき、夫に手渡すのです。それが妻の勤めというものです」。そのために夫は闘う家父長であり、一端急を告げれば戦場に駈け、しかるべきときには切腹もしなければならない。それが夫たる者、武士たる者の前提である。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社
                                   

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