SSブログ

対話随想余滴 №30 [核無き世界をめざして]

  余滴30 中山士朗から関千枝子様

                 作家  中山士朗

 昨年の十二月十三日の安保法制違憲訴訟・女の会の裁判での証人、原告の「尋問」の個所を読みながら、もっとも悪い時代に生まれたわれわれの世代、しかも戦争を知る最後の私たちが切実に後世に伝えようとする意思を強く感じました。そして、広島で偶然に知り合われた堀池美帆さんのその後の動向を知るにつけ、お二人の「生命」を生き尽くす、燃焼力に触れた思いがしました。
 お手紙にありましたように、敗戦・被爆七十五年にあたる今年は、東京オリンピック開催一色に彩られ、戦争がもたらした悲惨な状況は語られることはないと思われます。
昨年、来日したフランシスコ・ローマ教皇は被爆地の長﨑、広島を訪れ、「核兵器のない世界の実現」を訴えました。しかし、安倍首相は、教皇と会談後のスピーチで、「日本は唯一の戦争被爆国として、核兵器のない世界の実現に向け国際社会を主導する使命を持っている」と強調。「核保有国と非核保有国との橋渡しに努め、双方の協力を得ながら対話を促す」と訴えましたが、国連で採択された核兵器禁止条約は「安全保障の現実を踏まえずに作成された」として、条約参加の意思を示しませんでした。
 そのようなことを考えておりました時、大分合同新聞の夕刊のコラム「灯」に、私が住んでおります六郷満山には、千三百年前に開山した両子寺の鐘があり、平和の鐘として発願されたという記事が掲載されていました。
 この鐘は戦時中に軍需供出され、戦後一九四八年(昭和23年)に再鋳造されたものでした。これは、執筆者である両子寺法嗣・寺田豪淳さんによると、祖父・豪延さんが終戦後広島を歩きその悲惨な体験から平和の鐘として発願したと語っていました。七十数年前にその鐘に刻銘された百七十名に上る方々は一人を残して他界されたということでした。そして、その鐘は物資乏しき折のもので内部の亀裂が生じ、応急措置の柱もひび割れが各所にできたために、再建に踏み切ったそうです。
 師走に、落慶式がありましたが、この令和の三百年は持つという設計の新鐘楼は、世界平和の祈りを乗せて、新たな歴史を刻んでいくというお礼の言葉で結ばれていました。
 こうしたことと反して、新年早々の新聞に、被爆しながらも倒壊を免れ、今も残る最大級の建物「旧陸軍被服支廠」(広島市南区)を、県が一部解体の方針を示したことに対して、保存を求める声が広がっているとの記事が二度にわたって書かれていました。
 新聞の記事によると、広島氏が被爆建物として登録した建物は市内に八十六件、その中で最大級のものが被服支廠だということです。約一万七千平方メートルの敷地に四棟がL字形に並んでいます。一九一三年に軍靴や軍服を作る工場として建設されましたのが、そのうち三棟を所有する広島県は、一棟は改修して保存しつつ、地震による倒壊の恐れを理由に二棟解体の方針が県議会に示されたということのようです。
これに関して、被服支廠で被爆した中西巌さん(八十九歳、呉市)は、
「核廃絶の役立つ施設、完全な形で残したい
と記者会見で語っていました。
 同席していた他のメンバーらも、
「第二の(世界遺産)原爆ドームになり得る建物だ」
と語気を強めた人もいたようです。
松井一実市長は、
「できる限り全棟を保存してほしい」
と要請し、
「失われると二度と取り戻すこと9ができない」
と意義を強調したと告げられていました。
 この議論は、保存予算の問題として県と市の間で折り合いがつかず、被爆建物の継承を巡って目下、署名運動が行われていて、一万五千筆の署名が集まっているということです。
 私は、この間のやりとりの中で、「失われると二度と取り戻すことができない」という発言にこだわってしまいました。私はかねてより原爆ドームを補修して保存することに異を唱えていました。廃墟は廃墟たらしめ、保存すべきだと思っておりました。そして、思ったことは、心や体に被爆の傷を残して死んで逝った者の死は、どのように考えられていたのかという疑問でした。
 私は、今年の誕生日を迎えると、九十歳になります。
恐らく、過去の戦争について記憶し、語ることができる最後の世代だと思っていますが、それもきわめて短い時間しか残されていません。これまでの生きて来た証として、できるだけ多くの言葉を書き残しておこうと思っています。

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。