SSブログ

渾斎随筆 №49 [文芸美術の森]

新年の曙光

               歌人  会津八一

 新しい年が来た。誰いふとなく、ことしは復興の曙光が見え初めたといふ。われわれも久しい問およそ辛い思ひをし續けて来たから、この邊でぼつぼつ復興の曙光にでもめぐり邁ひたいやうな気持になる。しかしその曙光は、東の海の果からほのぼのとさしそめて来るといつたやうな古風な考を、今でも當てにして居る人が多いなら、それは大きなまちがひだ。そんな風によそからさして来る曙光をあてにしてゐるやうな人ばかりだと見れば、さしかけた曙光も呆れて引っ込んでしまふにきまってる。曙光は遠い所から来るのでなく、われわれの身のうち、心の中からさし出て来るべきものだ。かういふ曙光でないと、ありがたい曙光と云はれない。

 日本は世界でも古い国の一つで、昔から紳佛に信心が掛けられてゐた。その頃でさへも、自分の心の暗さや穢なさを棚に上げておいて、ただ合掌してお賽銭を投げるばかりでは、ろくなごりやくは無かった。まして今の世には神も佛もないことになって、その代りに、眞理と正義を愛し、勤労と責任を重んじる、自主的精神の育成が目指されてゐる。いかに暦が新しくなったと云つても、こんなところへ舊式な曙光などが、うかうかと姿を見せるべきではない。日が暮れて夜になり、夜が明けて朝になる。これは毎日のことだ。ある朝の光を特別な歓びに満ちて迎へるには、われわれの胸の底にも、いくらかの自発があるべきだ。
                                                                   
 新潟に綜合大學を興すといふ運動は、たしか昨年の正月から始まった。この綜合大學が、昨年のわれわれのあこがれた曙光の一つであったといってもいい。卓識のある人たちが先づその必要に気づいて唱へ出してから、役人たちも一般有志の側もこれに呼應して、おしまひには街頭で縣民大衆の署名とまでなって賑かなことであった。私なども或る晩引き出されて、その運動のために一席所見を拝じたことがあった。
 その時私の云はく、むかしこの縣と長野縣とが一つの高等學校を争った時に、その運動のため東京から招かれて来た外山博士は、一つの高等學校ぐらゐのものを南方で引つばり合ふなどはけち臭い心がけだ。両方で一つづつ建てたらいい。それよりも両方とも大願だから、めいめい一つづつ大學を建てたがいい。とかういふ演説をされて一同面食ったものだ。これはもう五十年近くにもなるから、今にして外山博士の卓見に驚くのほかない。今ではいよいよわれらにも一つの大學が輿へられるといふことになったが、われわれとしては、よく自分の足もとを省みなければならない。われわれの胸の仲や腹の中を、よく査べて見てから、それを頂戴することにしなければならない。
 米や味噌が肉體の栄養であるやうに、學藝は心の糧である。と云つてしまへば、平凡すぎるほどの話だが、からだの栄養にしても同じことだけれど、心の糧などいっても、さほどの食欲の無いものが、急に美食や大食をすると、たちまち消化不良となり、中毒にもかかる。綜合大學といへば、正に超特級の御馳走だ。そんなものを頂戴するだけの食欲がわれわれに起って居るか。それが起って居ないのなら不経済でもあり、害があって益はない。残念ながらこの縣の人たちは長野あたりに較べて、一般に文化が高いとも知識欲が強いとも云はれない。大學の大の字は、大臣とか大辞典とかいふ風に、とかく日本人の大好きな文字で、それが欲しいといふのもまんざら悪いことではないが、それがほんとに欲しいのならそれこそ今からでも決して遅くはないから、尊重に封する欲望、文化に封する欲望を、われわれの間に、大に振い興さなければならない。

 それから、大學は材木や煉瓦で建てるにしても木や煉瓦だけでは大學は出来ない。何よりも良い先生を、出きるだけだけたくさんここへ引張って来なければならない。が、良い先生でも悪い先生でも、住むに家の無いところへは来るものでない。それよりも大切なことは、大學といへば學間をするところだから、うんとたくさん書物が無いことには、誰も来てくれるものでない。いい書物がたくさんあって研究に都合のいい學校でないといい先生は来ない。いい先生の来ないところへはいい學生が集まって来ない。つまらぬ大學しか出来ない。そんならわざわざ大騒ぎをして建てるにも及ばないといふことになる。

 その頃、大衆の興奮の中で、かういった私の言葉は、一遍の皮肉やまぜつ返しのやうに聞いた人もあったらしかった。けれどもそれから一年しかたたぬ今日になって気のつくことは、この縣の人たちはもう大學建設の興味を失ひかけて来たことだ。その證據には、縣会でも地もとの市でも、まるで冷淡に見送って居るので、ただほんの材木や煉瓦でつくる建物だけでも、四月からの開校に間に合はぬのでないか。況んやいい教師を集めるために書物やそのほかの設備を整へるなどいふことは果していつのことになるのか。ほんとに気の揉めた話である。縣の民衆が、めいめいに自分の心の中に省みるところがあって、われわれの生活の文化的向上のために深く思ひ立った計畫であったなら、こんなことになるべきではないであらう。

 いったい新年の曙光も、去年は去年、今年は今年と、毎年手をかへ晶をかへて軽薄な夢を先へ先へと送って行く必要はない。昨年期待した曙光をば、今年も同じものをますます熱心に期待すべきだ。それにつけても、をの期待は厳粛な反省のもとに、われわれの心の底から起こるべきものだ。そしてわれわれの心を盡してその出現を期すべきものだ。ただうかうかと、気持のよささうな、そして自分の柄にもない夢を見ながら、新年の曙光だなどと喜んで居るのは、精神薄弱者といふものだ。われわれはもつとしっかりしてかかるべきだ。
                『夕刊こイガタ』昭和二十四年一月一日


『会津八一全集』 中央公論社

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。