過激な隠遁~高島野十郎評伝 №20 [文芸美術の森]
第四章 高島さんの言行録 6
早稲田大学名誉教授 川崎 浹
山口二矢の嶽中自殺を賞賛
私が新居に落ちついた昭和三十五年は、日米安全保障条約が成立したいわゆる六〇年安保の年である。
なにより最大の事件について触れなければ、昭和三十五年(一九六〇)をしめくくるわけにはいかない。安保反対のデモ隊が国会議事堂を十重二十重にとりまき、その先頭に立ったのが社会党の浅沼稲次郎である。しかし反対デモの激化に危機感をおぼえた右翼少年の山口二矢(おとや)が十月十二日に日比谷公会堂の演壇で書記長浅沼を刺殺した。テレビが普及しかけた頃で、このテロ行為のシーンは私たちに大きな衝撃をあたえた。さらに山口二矢は少年鑑別所で縊死して、私たちに二重の衝撃をあたえた。
超党派的な人気をもつヌマさんが暗殺され、私は「このさき日本の社会はどうなるのだ」との危惧を日誌にメモしている。この事件をとおして、私はさらに高島さんの一面を知ることになった。十一月下旬に画家が来宅して、獄中で自殺した山口二矢を「自分で責任をとるみごとな男だ」と賞賛した。私は驚くが、反対意見はのべなかった。高島さんと私が同年配だったら喧嘩別れになっていただろう。
高島さんの発言は私には驚くべきものとして映った。
毛沢東や周恩来と会って帰国し、羽田空港でタラップを降りながら、かぶっていた中国共産党のシンボル工人帽(こうじんぼう)を振りまわす姿を見て、私は浅沼にも違和感をおぼえたことがある。
あれから三十年後のソ連共産主義の解体と、現代国際社会の動向をかえりみるとき、野十郎の政治的方位もまた選択肢のひとつであり、私たちの、どちらの何が誤っていたと私には断定できない。
なにより最大の事件について触れなければ、昭和三十五年(一九六〇)をしめくくるわけにはいかない。安保反対のデモ隊が国会議事堂を十重二十重にとりまき、その先頭に立ったのが社会党の浅沼稲次郎である。しかし反対デモの激化に危機感をおぼえた右翼少年の山口二矢(おとや)が十月十二日に日比谷公会堂の演壇で書記長浅沼を刺殺した。テレビが普及しかけた頃で、このテロ行為のシーンは私たちに大きな衝撃をあたえた。さらに山口二矢は少年鑑別所で縊死して、私たちに二重の衝撃をあたえた。
超党派的な人気をもつヌマさんが暗殺され、私は「このさき日本の社会はどうなるのだ」との危惧を日誌にメモしている。この事件をとおして、私はさらに高島さんの一面を知ることになった。十一月下旬に画家が来宅して、獄中で自殺した山口二矢を「自分で責任をとるみごとな男だ」と賞賛した。私は驚くが、反対意見はのべなかった。高島さんと私が同年配だったら喧嘩別れになっていただろう。
高島さんの発言は私には驚くべきものとして映った。
毛沢東や周恩来と会って帰国し、羽田空港でタラップを降りながら、かぶっていた中国共産党のシンボル工人帽(こうじんぼう)を振りまわす姿を見て、私は浅沼にも違和感をおぼえたことがある。
あれから三十年後のソ連共産主義の解体と、現代国際社会の動向をかえりみるとき、野十郎の政治的方位もまた選択肢のひとつであり、私たちの、どちらの何が誤っていたと私には断定できない。
山口二矢をほめたその日、テロルの話ばかりしていたわけではない。しばらくして高島さんは能の舞に話を戻している。私にはすこぶる興味ぶかいものに思われた。
「これより輿ある舞を致そうぞ、と言って、演舞者は少しも動かぬ。十分ぐらいたって、足の先をちょいと動かす。これは能の静を表現する。それまでの静が実は動であったことを表現するために、足をちょいと動かすのです」。
私自身、当時、観世流の観劇グループ「銕仙会」の一員だった。「興ある」話に思えたので、正確にメモしたが、野十郎の絵を前にして、この逆説は生きてくる。かれの絵のモチーフは動かないでじっと止まっているようでじつは動いている。また、さまざまなものが隠されていて、それがじつは絵ぜんたいの雰囲気に浸透している。なにか閉ざされているような雰囲気でいて、じつは開かれている。一小村の平凡な雪景色のように思えたものが、しばらく視線を浴びているうちに、今までになかった微細な色と形と線によって見る者を惹きつけはじめる。絵そのものが動かないようでいてじつは動きながらこちらに迫ってくる。
「これより輿ある舞を致そうぞ、と言って、演舞者は少しも動かぬ。十分ぐらいたって、足の先をちょいと動かす。これは能の静を表現する。それまでの静が実は動であったことを表現するために、足をちょいと動かすのです」。
私自身、当時、観世流の観劇グループ「銕仙会」の一員だった。「興ある」話に思えたので、正確にメモしたが、野十郎の絵を前にして、この逆説は生きてくる。かれの絵のモチーフは動かないでじっと止まっているようでじつは動いている。また、さまざまなものが隠されていて、それがじつは絵ぜんたいの雰囲気に浸透している。なにか閉ざされているような雰囲気でいて、じつは開かれている。一小村の平凡な雪景色のように思えたものが、しばらく視線を浴びているうちに、今までになかった微細な色と形と線によって見る者を惹きつけはじめる。絵そのものが動かないようでいてじつは動きながらこちらに迫ってくる。
『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社
2020-01-13 09:31
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